ときどき「リンクを張ってもいいですか?」というお問い合わせをいただく。
ホームページに「リンクフリー」と書いてないので、ごていねいに許可を求めてこられているのである。
もちろんこのサイトは「リンクフリー」である。
リンクフリーどころかコピーフリー、「転載転用複製」フリーである。
私の書いたものを勝手に切ったり貼ったりして「私の意見です」と言ってホームページで開陳していただいたもまったく構わない。
だって、私は「自分の意見」をあらゆる機会にできるだけ多くの人に伝えたくて、このサイトを開いているわけなのであるから、私に代わって「私の意見」を宣伝してくれる人々がいることは心から歓迎すべきことであって、それに対して「盗用するな」とか、「コピーライトを尊重しろ」とか、セコイことを言うすじのものではない。
それどころか、「私のホームページのコンテンツを勝手に切り貼りして、それで本を作って、その人の名前で出版していただいて、印税収入を得られても、ぜんぜん構いません」とまで豪語しているのである。
しかるに、このような大言壮語にも限界があるようだ。
晶文社から「出版契約書」なるものが送付されてきたのであるが、その第4条(排他的使用の禁止)には
「甲は(私のことね)、この契約の有効期間中に、本著作物の全部もしくは一部を転載ないし出版せず、あるいは他人をして転載ないし出版させない」とあり、
第五条には
「本著作物と明らかに類似すると認められる内容の著作物もしくは本著作物と同一書名の著作物を出版せず、あるいは他人をして出版させない」と規定されている。
つまり、『「おじさん」的思考』掲載分およびそれに類似のテクストについては、「転載出版盗用剽窃」フリーではなくなってしまったのである。
考えて見れば、もっともである。私は誰の名においてであれ、「私の意見」が流布すればOKなのであるが、出版社は「私の意見」ではなく、「私の本」が流布しないと利益がない。
というわけなので、別の人が本サイトのコンテンツだけを流用して、その人の名前で本にして出す、ということはどうやら法的にはむずかしいようである。
すまない。
だが、私としてはぜひ誰かに「そういうこと」をして頂きたいのである。
そして、その「事件」がひろくメディアに取り上げられて、「コピーライトなんて豚に喰わせろ」というような私の意見が大々的に開陳され、それに対して識者から猛反論が来て・・・というようなわくわくする展開を期待しているのである。
しかし、まだ誰もやってくれない。
四日ぶりに家に戻ったら、メールが45通たまっていた。
うち20余通が「卒論計画」と「春休みの宿題」。
ウイスキーを傾けながら、学生さんたちの作文を読む。
なかなか面白い。
着眼点はつねに面白い。センスのよい子たちだからね。
しかし、この「面白い着眼点」から「深みのある考察」へ進むためには、まだまだ大きな障害を乗り超えなければならない。
それは大きくふたつにわけると「資料的基礎づけ」を行うことと、「論理的に思考する」ことである。
自分の日常的な知見(TVで見たこと、雑誌で読んだこと、友だちから聞いたこと・・・)だけを資料的基礎にして学術論文を書くことはたいへんにむずかしい。(私くらい劫を経たおじさんになるとそれも可能だが、それも半世紀分の「雑学・豆知識」のストックがあればこそ)
いちおう、選択した主題については「調べもの」という作業を行わないといけない。
文献を読む、インターネットで検索する、というのがお手軽な資料検索であるが、「お手軽」には「お手軽」の限界がある。
これらはすべて「第二次資料」とよばれる。それは、ある主題「について」の言説であり、主題「そのもの」ではない。
主題「そのもの」についての研究は、研究者本人が「現場にゆく、現物を見る、本人に会う、実際に経験する・・・」というフィールドワークをしないと始まらない。(刺青の研究をしたゼミ生は日本各地の彫師を訪れてインタビューをとってきた。ホームレスの研究をしたゼミ生は二人のホームレスに長期間同行取材を敢行した。花火の研究をしたゼミ生は寝袋かついで日本縦断花火の旅に出かけた・・・うちの子たちは代々フットワークがいい)
そこで得られた情報は「第一次資料」と呼ばれる。これこそ、その研究者が「研究共同体」に「贈り物」として提供することのできる貴重な学術データである。
データ収集に限って言えば、駆け出しの学生であっても、着眼点とフットワークさえよければ、斯界の大学者に負けない仕事をすることができる。
しかし、それだけでは済まない。
そのあとに、収集された資料を分析し、理論を立てるという「論理的思考」という仕事が要請される。
学生さんたちはこれが苦手である。
論理的に思考する、というのは簡単に言ってしまえば、「いまの自分の考え方」を「かっこに入れ」て、機能を停止させる、ということである。
「いまの自分の考え方」というのは、自分にとって「ごく自然な」経験や思考の様式のことである。
目の前に「問題」があって、それがうまく取り扱えない、というのは、要するに、その問題の解決のためには「いまの自分の考え方」は使いものにならない、ということである。
ペーパーナイフでは魚を三枚におろすことはできないのと同じである。
使いものにならない道具をいじり回していても始まらない。そういうものはあっさり棄てて、「出刃」に持ち替えないといけない。
「論理的に思考する」というのは、煎じ詰めれば、「ペーパーナイフを棄てて、出刃に持ち替える」ことにすぎない。
しかし、ほとんどの学生はその貧弱なペーパーナイフを固く握りしめて手放そうとしない。あくまで自分の「常識」だけで、料理をなしとげようとする。
自分の道具にこだわりを持つ、というのはそれ自体悪いことではない。
しかし、それでは「三枚におろす」どころか、ウロコの二三枚を剥がすのが精一杯である。
論理的に思考できる人というのは、「手持ちのペーパーナイフは使えない」ということが分かったあと、すぐに頭を切り替えて、手に入るすべての道具を試してみることのできる人である。
金ダワシでウロコを剥ぎ落とし、柳刃で身を削ぎ、とげ抜きで小骨を取り出し、骨に当たって刃が通らなければ、カナヅチで出刃をぶん殴るような大業を繰り出すことさえ恐れないような、「縦横無尽、融通無碍」な道具の使い方ができる人を「論理的な人」、というのである。
よく「論理的な人」を「理屈っぽい人」と勘違いすることがある。
「理屈っぽい人」と「論理的な人」はまったく違う。
「理屈っぽい人」はひとつの包丁で全部料理を済ませようとする人のことである。
「論理的な人」は使えるものならドライバーだってホッチキスだって料理に使ってしまう人のことである。(レヴィ=ストロースはこれを「ブリコラージュ」と称した。)
そのつどの技術的難問に対して、それにもっともふさわしいアプローチを探し出すことができるためには、身の回りにある、ありとあらゆる「道具」について、「それが潜在的に蔵している、本来の使い方とは違う使い方」につねに配慮していなくてはならない。
「いまの自分の考え方」は「自前の道具」のことである。
ということは、「そのつどの技術的課題にふさわしい道具」とは、「他人の考え方」のことである。
「自分の考え方」で考えるのを停止させて、「他人の考え方」に想像的に同調することのできる能力、これを「論理性」と呼ぶのである。
論理性とは、言い換えれば、どんな「檻」にもとどまらない、思考の「自由さ」のことである。
そして、学生諸君が大学において身につけなければならないのは、ほとんど「それだけ」なのである。
健闘を祈る。
(2002-04-04 00:00)