4月2日

2002-04-02 mardi

引き続き実家でごろごろしている。
実家にいると「仕事」ができないので、それをよいことにぐだぐだしている。
やろうと思えば、レヴィナスの翻訳くらいできるのであるが、やる気にならない。
ダイニングのテーブルが私の指定席である。そこに座って本を読んでいると、20分に一回くらい母親が「まんじゅう食べる?」とか「コーヒーいれる?」とか「トンカツ食べる?」とか「ビール飲む?」とか訊いてくる。
それに「あ、結構です」とか「どうか、おかまいなく」とか「うっせーよ」とかいちいち応接しているとので、なかなか集中できない。
父親が治療を終えて退院してくる。
一週間ほどの入院だったが、だいぶやつれてしまった。
もともと寒がりの人であったが、いっそう寒がりになったため、桜の満開の候というのに、家の中はがんがんにストーブが炊かれていて、ほとんど温室状態である。
ますます頭がぼーっとして少しも知的なモードに切り替わらない。

甲野先生ご推奨、出口和明の『大地の母』を読む。こ、これは面白い。
お孫さんによる出口王仁三郎の伝記なのだが、聖と俗が同一人物内に同居する祝祭型の人格が魅力的に描かれている。
こういう同一人物内にエンジェリックなものとデモーニッシュなもの、天上的なものと地上的なものが混在するということの重要性を現代社会はあまりに見落としていないだろうか。

「天使か悪魔か、どっちかに単純化しろ」
という簡単派と、
「天使と悪魔をこきまぜて凡人にしろ」
という折衷派は、どちらも「単彩」であることに固執している点で精神の双生児である。

どうして人間の人格は「単一的」でなければならないのか。
だれがそんなことを決めたのか。
私はこれは「内面」とか「ほんとうの私」とかという近代的なイデオロギーの弊害であると思っている。
人間の多面的な活動を統合する中枢的な自我が「なくてはすまされない」という考えが支配的になったのは、ほんとうにごく最近のことだ。
例えば江戸時代の侍には「内面」なんかなかった。
そもそもそんなものを吐露する言語もなかったし、コミュニケーションしようにもそれを受信し読解してくれるような相手がいなかった。
コミュニケーションできない「メッセージ」というのは、真空の中の叫び声のようなものだ。
誰にも聞こえないし、もちろん自分にも聞こえない。だったら「ない」と同じである。

山本周五郎の『樅の木は残った』の主人公、原田甲斐という人物が「ほんとうは何を考えていたのか」は、この小説を眼光紙背に徹するまで読んでも分からない。だって、原田甲斐自身は、そのときどきで伊達藩にとって最適と思われる政治的選択をしているにすぎないからだ。状況が変われば言うこともどんどん変わる。
だから、端から見ると「天使か悪魔か、バカか利口か、忠臣か佞臣か」分からない。
政治的状況において、「私」を固定的なもの、定数にとってしまえば、選択しうるオプションは減少する。
だから、「おとな」は、システムにとっての最適選択をするために「私」を決して固定化しない。アイデンティティの維持よりシステムの維持のほうが、自分にとっても「みんな」にとってたいせつである、ということを知っている「おとな」にとって、アイデンティティなんていうものにはほとんど何の意味もない。
これをして古人は「君子豹変す」と言ったのである。

このあいだ昼間『暴れん坊将軍』の再放送を見ていたら、ある藩の重臣の子息が「自分らしい生き方をしたいので、侍をやめて町人になります」と宣言して、みんなが「えらいえらい」とほめているという場面にでくわした。
木村拓哉が堀部安兵衛を演じた暮れの「忠臣蔵」では、キムタクが浅野の殿様や大石内蔵助に「ためぐち」を聞いて、「おれにおれの生き方があるわけよ」というようなことをほざいていた。
どうも脚本を書いた人間はこれを「ジョーク」だと思っているのではないらしい。
もしかして、昔のひともアイデンティティ神話を生きていたと思っているのかも知れない。
いまの自分たちが考えたり感じたりしているように、外つ国の人も、昔の人も考えたり感じたりしているに違いないと想定して怪しまないというのは、いくらなんでも無知の度がすぎる。
もちろん江戸時代の侍が場所がらも相手もかかわりなく、つねに「同一性」を貫徹すべく「おれがおれが」というようなことを言うはずがない。だって、「侍である」というのは「公的である」ということ、つまり「わたくしがない」ということをもって本質とするような存在様態のことなんだから。
彼らが殿様に向かって「おれにはおれの生きざまってのだあんだかんさ、それへのこだわりってゆーのをさ、分かって欲しいわけよ」というようなふざけたことを言うはずがない。そういうことを決して言わないというか、心に思いもしないというのが「侍」という生き方なんだから。
「一力茶屋」で女の子と遊んで、それから吉良邸に討ち入りをするのは大石内蔵助にとって少しも「不整合」ではないのである。
それが「公私の別」ということなんだから。
『忠臣蔵』の例を続けるけれど、最終的に吉良邸討ち入り作戦にとって死活的に重要なすべての情報は「平気で周囲を偽り、別人になりおおせた」義士たちからもたらされた。
「つねにおれは自分らしく生きたい」なんてふざけたことを言っている人間に、こんな大がかりな陰謀が実現できるわけない。
相手により、場所により、立場により、複数の人格を使い分け、そのつど「別人」であることは、ほんの半世紀前まで、日本の「おじさん」にとってごく自然なふるまいだった。「自然」というより「生き延びるために必須」だったのである。だって、ある種の政治的信条を明かすことが生命の危険をともなうような状況にあるときに、「私はあらゆる局面で、自分らしさを貫徹することが何よりも大事だと思う」というような暢気なことを言う人間はすぐに死んでしまうからである。

出口王仁三郎の伝記によると、少年期の王仁三郎は極貧のうちに育ち、さまざまな局面で不当な侮りを受け、屈辱に甘んじ、おのれの欲望の実現を阻まれた。しかし、同時にいたずらの限りを尽くし、猛然と学問に励み、芸術にかぶれ、ナンパの帝王となり、篤い信仰心を抱いていた。
もしアイデンティティや「自分らしさ」をありがたがる現代の若者が王仁三郎的な境涯におかれたら、まず例外なしにいじけてくじけてうらみがましく卑屈な人間として一生を終えるほかなかっただろう。