国立大学の独立行政法人化がいよいよ2004年から実施されることになった。
制度改革の眼目は
(1)文科省の規制が緩和され、大学の裁量権が増す(学科以下の組織改編では文科省の認可が要らなくなるなど)
(2)学長権限の強化、外国人学長の登用、民間人の経営参加などが見込まれる
(3)交付金の使途が大学の自由裁量権に任され、収益事業も認められる
(4)大学は独自に中期計画を策定、「評価委員会」が達成度を評価して交付金の配分に反映させる
などなど。簡単に言えば、国公立大学が私学化=企業化するということである。
ただでさえ私学は経営が苦しいのに、そこに国公立が乱入してくるわけである。
大学生き残りをかけた「バトル・ロワイヤル」は今後ますます激しさを増すことになるであろう。
しかし、この大学の企業化の趨勢に、私は一抹の不安を禁じ得ない。
それは朝日の社説でも言及されていたが、これを機に、もっぱら大学経営実務を掌握する上級事務職員の発言権が増すことが確実だということである。すでに副学長には民間の経営者を招くという事例があるが、今後、大学事務長に大企業の人事や総務の管理職が横滑りしてくるということもあるだろう。
当然、同じことが私学でも起こりうる。
これはけっこう重大な問題だと私は思う。
ほんらい経営責任を負うのは理事会で、教師たちは研究教育だけに専念して、経営のことなんか関係しなくてよいはずである。
しかし、本学では伝統的に教授たちは大学経営について深くコミットし、財務内容についてもわりと詳しい。
「どうして、私たちが財務諸表なんか見ながら、学費の算定やら入学者の調整やら教員のリストラ計画まで考えなくちゃいけないんだ。研究に専念させてくれー」と行政職にある先輩教授たちはよく愚痴をこぼしている。
しかし、それは決して悪いことではないと私は思う。
これまで大学経営にかんして、理事会の決定と教授会決定が食い違ったことが何度かあった。そのたびにつねに教授会に理事会が譲歩してきた。
それは、教授会が大学の財務内容をかなり正確に掌握しており、「できることとできないこと」が分かっていた、というのが理由の一つであるが、そればかりではない。
教授会が最終的に一致団結してこられたのは、つねに教授会の方が「学生の目線」に近いところから発言していたからである。
自分たちの利害ではなく、学生の利害を代表しているという確信があればこそ、理事会との意見の不一致において教授会が最後までがんばることができたのである。
当然である。
理事たちは、学生と接触する機会がないが、学生こそ大学にとっての「クライアント」なのである。
クライアントがどういう人間であり、どの程度の能力と資質を持ち、何を求めて大学に来ているのか、何に不満を感じているのか、何に魅力を感じているのか・・・そういった「企業経営」にとってもっとも重要なマーケット情報については、理事たちと現場で毎日学生と顔をつきあわせている教師たちでは、データの厚みや蓄積や正確さが、まるで違う。
CS(顧客満足度)が大学経営の生命線であるとしたら、市場情報に直接アクセスしない人々が机上の議論だけで経営の基本方針を決めるのはリスキーなことだ。
かつての理事長は、入学者の偏差値は多少下がってもいいから、とにかく学生数を確保しろ、という経営のロジックで教授会をごりごり押してきた。
経営者からすれば、学生はただの「金」である。
偏差値60であろうと、40であろうと、一定数の学生が入学金と授業料を払ってくれれば、大学経営に何の支障もない。
だが、それは現場を知らない人のいいぐさである。
教育を受けることに動機づけのない学生にとって教室に坐っていることは拷問でしかない。誰も聞いていない授業を私語の騒音の中でつづけるのは教師にとっては苦役でしかない。
そんな場を大学と呼ぶことはできない。
教育を受けることに希望をもっている学生にとって教室にいることは充実した時間である。そのような学生と語り合うことは教師にとって至福のときである。
私たちはそのような出会いを求めて教育の場に立っている。
大学の収支を黒字にするために教場に立っているのではない。
大学経営は自動車を売ることとは違う。
顧客の運転技術がどれほど未熟であろうと、顧客が自動車をどれほど汚そうと、顧客がどれほど人をひき殺そうと、自動車メーカーには関係ない。
売ったあとはユーザーの責任である。
しかし、大学というのは、いわば、自動車を売ると同時に、助手席に乗り込んで顧客に運転指導をし、車の整備と磨き方を教え、よい自動車と悪い自動車の見分け方を教えるような商売なのである。
相手がだれであろうと、車を売ったらはいおしまい、というわけにはゆかない。
どんな顧客に選ばれるか、ということはクライアントにとっても大学にとっても、たいへんに切実な問題なのである。
誤解してほしくないが、大学経営に民間経営の手法を導入することそのものに私は反対しているわけではない。
ビジネスマインドを持て、ということはもとサラリーマン教員である私の口癖である。
教員の研究教育の活動を適正に評価し、その査定を予算配分や身分や給与に反映させることの必要性を私はかねてから提唱している。
学外から社会経験の豊かな人士を招いて、多様な教育機会を学生に提供することの必要性も理解している。
しかし、それはあくまで「現場を知っているひと」についての話である。
だから、私は次のことを提案したい。
今後大学経営の要職に就くものは「週一コマ授業を担当すること」。
べつに教師の経験のない人だって構わない。
「起業経営論」だって「コンピュータによる経理処理法」だって「店舗開発関連法律実務」だって「マイクロソフトの世界戦略」でもなんでも構わない。
ながく民間で働いていたなら、若い人たちに教えられることはやまのようにあるだろう。
そのネタで、じっさいに週に90分、学生を教えて欲しい。
学生が何を知っているのか、何を知らないのか、何を求めているのか、何が必要なのか、それを自分で見て欲しい。
教えるということがどれほど困難でかつ愉快な経験であるかということを身を以て味わった上で、大学経営について考えて欲しいと思う。
(2002-03-27 00:00)