3月20日

2002-03-20 mercredi

朝日新聞の朝刊で、法政大学の川成先生がまたまた「爆弾発言」をしていた。
『大学崩壊』で、ここまで「歯に衣着せぬ」ことを書くと、大学の同僚たちとの人間関係にいささかフリクションが起こらないのかしら、とウチダが心配するほど(ウチダに「同僚との人間関係」を心配されるというのは相当なものである)過激な「本音」を爆発させた川成先生であるが、今回も手厳しい。

「それにしても昨今の大学生の学力低下はすさまじい。しかも、それが年々加速している」と切り出して、返す刀で「現在、鳴り物入りで進んでいる『大学改革』の大半は『お客さま』である大学生への場当たり的な追従にしか見えない。具体的な科目名を挙げるのを控えるが、新規設置の科目の中には、これが大学で教えられるのかと思うような噴飯ものも混じっている」とカリキュラムもばっさり。

「必須科目がさらにスリム化され、適当に単位を取らせて、卒業させている。この驚くべき過保護が社会的に自立できない人間を量産しているのである。」

川成先生が提言しているのは三つ。

一つは「入試改革」。
学力テストをともなわない「青田刈り」のAO入試や推薦入試をただちにやめて、学力テスト一本、「それも、入試科目を五教科にふやして、高校卒業の基礎学力をもたない学生は入試段階でチェックすべきである。」
第二に、教員。
「研究面では全く無能だが、権力欲だけは旺盛で、教授会を『談合の場』に陥れている『学内政治家』を徹底的に排除しなくてはならない。」
第三に、「高等教育機関としてのビジョンを社会に明確に開示」して、「倒産を覚悟で、『若者のレジャーランド』『愚者の楽園』から脱却し、本来の姿を模索しなければならない」と結んでいる。

爽快な現状分析であるが、「ちょっと、待ってね」とウチダとしては、控えめに異見をさしはさませていただきたいと思う。
学生の学力はご指摘のとおり、たしかに劇的に低下している。
率直に言って、いまの文系の大学一年生の平均学力は、私自身の中学二年生時の学力とだいたいタメである。(英語はどっこい、国語と社会ではウチダが優勢、読書量ではまず圧勝)
およそ5年のビハインドである。
しかし、この方たちは小学生のときから、毎日塾にかよって、膨大な時間とエネルギーをかけてきたあげくにこれほど恐るべき学力に達したわけであるから、これはいわば日本の教育制度総体の努力の「成果」であって、大学ひとりにその責めを負わせては気の毒というものである。
五教科でも七教科でもきびしい学力テストを課して選抜する大学は、たちまち志願者激減の波に洗われ、その志を多としつつも、いきなり「定員割れ」の危機に瀕するであろう。
そもそも教科を減らしたのは、教科を減らしたら志願者が増えるという小手先のことだけではなく、「13点」が合格で「7点」が不合格(100点満点でね)というようなレヴェルの試験にそもそも選抜の意味があるのだろうか、と大学側がなげやりな気分になったのが、その大きな理由であることを忘れていただいてはこまる。
大学卒業生が「社会的に自立できない」のは、大学を卒業したら「社会的に自立」してよいはずだ、という常識自体が成立しなくなったからである。
さきほどの試算でいえば5年分のビハインドをどこかでキャッチアップしなくてはいけないのだが、どう考えても大学四年間でそれをクリアーするのは無理な相談である。

だから現今の大学卒業生はかつての高卒程度の学力に達していれば、もって瞑す可しということでよろしいのでは、と私は考えている。
教員にしたって、要するに昔の高校の先生だと考えればよいのである。
非行に走る生徒や家庭に問題をかかえる生徒のために奔走する「金八先生」に「研究面」での成果を求めるのは酷というものであるということはどなたにもお分かり頂けるであろう。
それに類する仕事にどたばたしている大学教員は現に少なくない。
また「学内政治家」と言われるけれど、大学がぼろぼろ「倒産」しようというご時世である。
ビジネスマインドのある教員が自分の研究そっちのけで、他の教員の研究環境確保のために奔走しているという事例だって少なくないのである。
少なくともうちの大学について言えば、「学内政治」のエネルギーのほとんどは「大学をどうやって生き延びさせるか」という焦眉の課題に向けられている。(私自身は自分が気楽に研究に没頭できるのは、そういうひとたちの時間とエネルギーを「収奪」したおかげだと思っている。)
彼らに「学内政治」を止めて研究せよと言うのはいいが、ではそのあといったい誰が大学の面倒を見てくれるのであろうか。

総じて、大学というものの社会的機能の歴史的変化を川成先生は、どこかで見落とされているのではないかと私は思う。
いまの日本の大学は、歴史的な「大学」とはまるで別物である。
かつての大学と違うからといって、それに「戻す」ことはもうできない。
前に言ったことの繰り返しになるけれど、「日本の大学はこの10年あまりで、奈落の底に落ち込んだ」のではなく、「奈落の底」が日本の大学がいま占めるべき歴史的ポジションなのである。
かつての大学に相当する教育機能は、「超難関校+欧米の大学+ふつうの大学の大学院」がカバーしており、そこへの進学率が5%程度であれば、昭和初年の大学進学率とだいたいイーブンで、エリート養成のためならそれで足りる、と私は思っている。

奇しくも今日の新聞に世界最高齢者は男女とも日本人ということであった。
つまり、いまの若者については、18歳がむかしの12歳、22歳がむかしの15歳、30歳がむかしの20歳、というふうに考えて、「一生トータルでの成熟達成点」がぼちぼちであれば、まあ、いいんじゃないか、というふうにウチダは考えたい。
だいたい、織田信長が「人生五十年」と謡ったのを基準にしたら、私も川成先生ももう死んでいる。それがこのように「未来」について悲憤慷慨していられるというのは、信長の時代を基準にすれば、私たちはまだ「青二才」だからである。この先まだまだ熟成するだけの時間的余裕があると思えばこそ、暴論も吐こうというものである。
「翁」がまだ「青二才」なんだから、大学が高校なのは仕方がないと私は思う。
もう少し気楽にいきません?