3月17日

2002-03-17 dimanche

家から一歩も出ず、終日原稿書き。
『寝ながら学べる構造主義』の書き直しなのであるが、私の悪い癖で、書き直しというと、つい全部はじめから、徹底的に書き直してしまう。
編集の嶋津さんから「どういうことですか?」とか「もっと具体的に」とか「意味不明」とか、きびしいチェックが入っている。それを見ながらごりごりと書き換えてゆくのである。

今朝は「ニーチェ」のところを読み直していたら、「超人」のところにチェックが入っていて、「これはどういうことですか? 簡単に説明をお願いします」と質問が書いてある。
ニーチェの「超人」について「簡単に説明せよ」とはまたご無体な。
いささか長い話になるのはやむを得ない。
『道徳の系譜』『善悪の彼岸』から説き起こして、『ツァラトゥストラ』、『悦ばしき知識』へと筆を進めて、「超人」とは何でしょうというご質問に、「分かりません」というお答えを書くまでに数時間を費やしてしまった。

でも、これはウチダのせいではない。
ニーチェ自身が「超人とは何か」について何も書いていないからなのである。
超人とは、「人間がサルを見ると、サルだと思う」のと同じスタンスを人間に対して持つ者、つまり「人間がサルに見える境位」である、とニーチェは言う。
そんなこと言われても、ね。
こっちはどーせサルなんだからさ。困るよ。
どうしたらサルが「超人」になれるのか、それについてニーチェはあまり具体的な指示はしてくれない。

「わたしはあなたがたに超人を教える。」

と『ツァラトゥストラ』には書いてある。

「おお、それではお答えを・・・」と次を読むと、

「人間とは乗り超えられるべきものである。あなたがたは人間を乗り超えるために何をしたか」

と続くのである。

はてな?
あのー、「超人」のことをうかがっているんでありまして、「人間」のことを聞いているんじゃないですけど・・・
しかし、ニーチェはサルの訴えには耳を貸さない。

「人間にとって猿とは何か。哄笑の種、または苦痛にみちた恥辱である。超人にとって人間とはまさにこういうものであらねばならない。」

どうやら「超人」というのは、具体的な存在者ではなく、「人間の超克」という運動性そのもののことのようである。「人間を超える何もの」かであるというよりは、「畜群」や「奴隷」であることを苦しみ、恥じ入るような感受性や、その状態から抜け出ようとする意志のことのようである。

「人間は、動物と超人のあいだに張り渡された一本の綱である。深淵の上にかかる綱である。人間において偉大な点は、かれがひとつの橋であって、目的ではないことだ。人間において愛しうる点は、かれが過渡であり、没落である、ということである。」

結局ニーチェは「人間とは何か」についてしか語っていない。
人間がいかに堕落しており、いかに愚鈍であるかについてだけ、火を吐くような雄弁をふるっているのである。
ニーチェにおいて、「超人とは何か」という問題はつねに「人間とは何か」という問題に、「貴族とは何か」という問題はつねに「奴隷とは何か」という問題に、「高貴さとは何か」という問題はつねに「卑賤さとは何か」という問題に、それぞれすり替えられる。
この「すり替え」がニーチェの思考の「指紋」である。
そして、この「すり替え」がニーチェの思想の「アキレス腱」である。
というのは、こういうふうに「言い換える」と、結局のところ、人間を高貴な存在へと高めてゆく推力を確保するためには、人間に嫌悪を催させ、そこから離れることを熱望させるような「忌まわしい存在者」が不可欠だという倒錯した結論が導かれてしまうからである。
ニーチェは何かを激しく嫌うあまり、そこから離れたいと切望する情動を「距離のパトス」と呼んだ。そして、その嫌悪感こそが「自己超克の熱情」を供与するという。
だから、「超人」へ向かう志向を賦活するためには、醜悪な「畜群」がそこに居合わせて、嫌悪感をかき立ててくれることが欠かせない。
おのれの「高さ」を自覚できるためには、つねに参照対象としての「低い」ものに側にいてもらうことが必要となる。
結局、自己超克の向上心を持ち続けようとするものは、「そこから逃れるべき当の場所」である忌まわしい「永遠の畜群」を固定化し、「いつでも呼び出し可能な状態」にしておくことを求めるようになるのである。
超人たらんとするものは、おのれの「高さ」を観測する基準点として、「笑うべきサル」であるところの「永遠の賤民」を指名し、身動きならぬように鎖で縛り付けることに同意することになるのである。
ニーチェの「超人思想」なるものは、こうして最終的にはみすぼらしい反ユダヤ主義プロパガンダにたどりついてしまう。

ニーチェを読みながら、向上心について考える。
向上心を持つのはよいことである。
しかし、それが「愚劣で醜怪で邪悪なもの」から逃れたいという「距離のパトス」を推進力にするものであるならば、皮肉なことに、その「忌まわしいもの」との二人三脚は永遠に続くのである。
向上し続けるために、罵倒と冷笑を永遠に吐き続けなければならないのである。
それって、なんだか寂しい生き方だとは思わないか。
私もまたあたりかまわず罵詈雑言を吐き散らし続けているが、これは向上心とは何の関係もない。
私の悪口にそんなたいそうな大義名分はない。
単に「人の悪口を言ってると気持ちがいい」ので、「悪いこととは知りつつ」、わいわい悪口を言い散らしているだけである。
悪いことをしている、ということは本人もちゃんと自覚している。
だから、さんざん悪口を言ったあとに、とってつけたように「すまない」と書き添えるのである。
ニーチェと私がどっちが「正しい」かと言えば、もちろんニーチェの方が正しい。(こっちは「私が悪いんです」とはじめから言ってるんだから「悪い」に決まってる)
でも、人生「正しければいい」というものではない。
落日に見入る晩年のニーチェの哀しい横顔を見ながら、そう思った。