3月14日

2002-03-14 jeudi

おお、今日はホワイトデーだったのか。
ウチダにチョコレート類を贈った皆様にはサイバースペース経由で「ハイホー」のご挨拶を贈らせて頂きます。
ハイホー。
みなさまの上に幸運がありますように。

さて、先日の「32年前のダンパの女の子」情報の続報である。
この女性は現在、東大病院にご勤務の臨床心理の専門家である。
今日、お電話を頂いて、なぜ私のホームページを発見したのか、その驚くべき由来をお聞きすることができた。あまりに面白い話なので、ご紹介したい。
先日、この方はドイツから来た女性学者に同行して、ある日本の学者との会談にたまたま同席された。その席で、その日本の学者が過日行った講演のレジュメが卓上に拡げられていたのをぼんやり眺めていたら、そこに「内田樹」の名前があるのを発見して、「おおお、これは32年前のダンパの!」と驚かれたのである。
そして、「あのー、私このウチダ・タツルっていう人、知ってるんですけど・・・ご存知の人なんですか?」とお尋ねになったのである。「大昔にちょっとだけご縁があった人なんですけど・・この人、何ものなんですか?」
先方も驚かれたようである。
だって、その「先方」はかの高橋哲哉氏だったのである。

その講演において、私は「ネオ・ソフト・ナショナリスト」とカテゴライズされて、加藤典洋氏ともども高橋氏の厳しいご批判を頂いていたようである。
「ネオ・ソフト(雪印)ナショナリスト」とは・・・高橋さんもコピーの天才。ウチダのポジションを言い得て妙である。
『ため倫』では高橋哲哉さんのことをずいぶんきつく書いてしまったので、そのあともずっと胸を痛めていたのである。
ウチダは高橋哲哉さんの論理を「正しい」と思っているのである。
それは同書のなかでも繰り返し書いている。ただ、「正しい」けどおいらにはその語り口がダメなので、その辺の機微を分かって頂いた上で、どうか「同じこと」をおいらも「そーだそーだ」と唱和できるような別の言い方でしてはくれないだろうか、という欲張りなことを言っているのである。
もちろん、それが身勝手な要請だということは百も承知である。

けれども私と高橋哲哉の距離と、私と藤岡信勝の距離はまったく違う。
「どっちの陣営」と言われれば、私はためらわず「高橋さんの方さ」と答える。
けれども高橋さんは私を「藤岡」や「西部」と同じカテゴリーに入れたがっている。
でも、私は古典的な意味での「ナショナリスト」とはまるで無縁な人間だ。

私は均質的な集団が嫌いなだけである。
ナショナリズムが集団の均質性を要求する限り、私はそれを断固拒否する。
でもナショナリズムを批判するときの語法が「反ナショナリズムの均質性」を求めるならば、私は「それじゃナショナリズムと同じじゃないか」と思ってぶーぶー文句を言うのである。

加藤典洋さんを私が支持するのは、彼が「多様性」を容認する人だということが直観的に分かるからだ。
高橋哲哉に距離を感じるのは、彼が「正しさの均質性」というものを恐れていないような気がするからだ。

正しいことはもちろんすてきなことだ。
でも、均質的であることは、正しさを損なう。
私は「正しくない」ことよりも「均質性がない」ことの方がよりキライなのである。
ものごとにはグラデーションがあった方いいと私は思う。
グラデーションがある方が「正しさ」がほんとうの意味で実現されるためには有効だろうと、私は経験的に信じている。
理由はうまく言えない。

私を「ナショナリスト」と呼ぶのは、私を藤岡信勝や西尾幹二と「均質化」することだ。
高橋は均質化することがやっぱりすごく好きな人なのだろうか。

そうはいっても、私に「ネオ」と「ソフト」と二つの限定形容詞がついていることは評価されなくてはならない。
「新しくて」「柔らかい」んだ。
新しいというのはあきらかに誤認だが(私はほとんど「古典的」な人間である)、
「ソフト」であるというのはうれしい評価だ。
政治犯になって拷問されるときに、鞭でびしびし打ったり、爪を剥いだりするやつと、「君にもいろいろ考えがあるんだよね、おじさんにも若い人の気持ちは分からんわけじゃない。ま、煙草でもどうかね。カツ丼食べる?」というやつと「どっちに尋問されるのがいい?」と聞かれたら、私はぜったい後者の方がいい。
そんなこといっても、革命運動を抑圧する効果から言えば、犯罪性において本質的に選ぶところがない、いう人もいるだろう。
でも、じっさいに拷問される立場になったら、やっぱり「本質的同一性」よりも「経験的差異」の方が重要だと
私は思う。

私は高橋哲哉が言うとおり、わりと「ソフト」な人間である。
でも「ソフト」であり続けることに身体を張る、という点については、けっこう「ハード」なのである。
ハードじゃないと生きていけないし、ソフトじゃないと生きてる甲斐がない。
マーロウさんもそう言ってるじゃないですか。

ためらいの倫理学