ひさしぶりの東京。
紀尾井町の文藝春秋社で、嶋津さんと『構造主義』の原稿チェックを3時間。
読者層の高齢化が進んでいて、主たるコンシューマーは50-60代。
市井の読書人たるおじさんおばさん向きの本じゃないと売れません、ときっぱり言われているので、これまでのような「平川君」や「お兄ちゃん」を読者に想定した「内輪の語法」は許されない。
「間主観性」も「分節」も「オープンソース」も全部チェックが入る。
こういう術語には必ず解説を施さなければならない。
「解説」といっても「現代用語辞典」のようなのはだめで、とにかく「たとえ話」を必ず入れて「あ、あのことね」というふうに読者が腑に落ちる説明をしてください、というのが編集者からの要請である。
なるほど、「たとえ話」ね。
それなら自信がある。
「たとえ話」ならいくらでも思いつく。
むしろ、今回の原稿では、終わりなく「牛のよだれ」のように繰り出す「たとえ話」を実はひそかに自制したのである。
編集者から「ウチダさん、この小話だけでまるまる一冊埋めようというのは、ちょっとあんまりあこぎなんじゃありませんか?」と上目遣いに見られるのでは、とウチダには珍しく気を回したのである。
慣れないことはするものではない。
題名にしても『いきなり始める構造主義』は「インパクトが弱い」というご指摘である。
もっと、リーダーフレンドリーな題名を営業サイドは望んでいる。
じゃあ、といささか腰が引けつつ
『寝ながら学べる構造主義』はいかがです?
あ、それで行きましょう!
えええ、そうだったの。
「寝ながら学べる」では、あまりにも態度が悪すぎると思って自制したのである。
「富士には月見草」がよく似合い、「ウチダに自制心」は似合わない、というのが本日の教訓でありました。
新幹線車内と都内の移動中に三浦雅士の『青春の終焉』を読む。
500頁近い本だったが、あまりに刺激的だったので、一気に読み終えてしまった。
三浦雅士はほんとうに頭のよい人である。
「かゆいところに手が届く」とはこのことである。
読んでどきどきする本には二種類ある。
何が言いたいのかよく分からないけど「なんだか、すごい」という本と、「ああ、それこそ私が言いたかったことなのよ」という「ひとりうなずき」が繰り返し訪れる本である。
『青春の終焉』はその両方を兼ね備えた名著である。
胸を衝かれた箇所は枚挙に暇がないが、ひとつだけ挙げるならば太宰治の口述筆記についての逸話である。
1998年太宰治の草稿が二つ発見された。
『人間失格』と『如是我聞』である。
『人間失格』はともかく、人々が驚いたのは『如是我聞』に草稿があったことである。というのはそれは口述筆記されたものだったからである。
死の直前の6月4日、太宰は『新潮』の担当編集者を電報で呼び出し、夜を徹して『如是我聞』(四)を口述筆記した。
口述筆記は『駆け込み訴え』など、それまでも複数の作品で試みられている。
「太宰はこたつにあたり、盃をふくみながら全文、蚕が糸を吐くように口述し、淀みもなく、言い直しもなかった」と伝えられている。
しかし、『如是我聞』の草稿発見によって、私たちは意外な事実を知る。
それは、太宰は完成稿を書き上げ、それを完全に記憶したのち、それを声に出して筆写させたということである。
三浦は太宰のこの不思議な創作態度を「舌耕文芸」の太古的伝統を受け継ぐものと考える。以下は三浦の文章から。
「太宰治は自分の作品を自分で上演していたのである。その上演は、電報を打って、編集者を呼び寄せ、徹夜してまで実行されねばならないほど重要なものだったのである。
太宰治は学生時代、義太夫を習っていたが、これではまるで義太夫語りである。おそらくその通りなのだ。さらにいってしまえば、いかにも近代的な苦悩に満ちているようでありながら、太宰治の作品の根底には前近代的とでもいうほかないものが色濃く流れているのである。」
三浦の論はこのあと同じく口述筆記の人であったドストエフスキーからバフチンへ、そしてカーニヴァル的なポリフォニック文体論と展開するのであるが、私は口述筆記のエピソードを読んだだけで、「ああ、そうだったのか」と太宰における言語と身体について、大事な秘密に触れたような気がしたのである。
なぜ太宰の小説は最初の数行を読んだだけで、もうその「語り」の中に絡め取られてしまうのか。それはことばが「声」を経由して、太宰治の身体を経由して語られているからだ。
読者はことばの「意味」にではなく、そのことばを語りつつある当の作家の身体の響きに巻き込まれてしまうのだ。いわば太宰治に「憑依」し、されててしまうのだ。
それは「ことば」が「声」を経由することによってのみ獲得する力だ。
口述する作家の文章を音読するとき、読者の中に、何か生々しいものが、眼を閉じたそのあとも身体の中に残響するものが生成することを、太宰治は経験的に知っていたのである。
『レヴィナスと愛の現象学』のなかで私は「理解を絶した言葉に、それにもかかわらず、身体がなじんでくる」という経験について書いた。
そういえば、レヴィナス先生の文章がなぜあのように「邪悪なまでに難解」とされているのは、哲学が「語り言葉」でかかれているからなのであった。
「・・・ではないだろうか」といううねるような否定疑問文の連打は、目の前でその問いかけに「絶句している」読者に、息の詰まるような緊張を強いるために、なされている。
タルムードは黙読されてはならない。
それは師弟のあいだで音読され、それが起源においてそうであったような、対話態に「解凍」されねばならないとレヴィナス先生は繰り返し書いておられたではないか。
聖句は読み手の身体を経由して読まれねばならないということは、単に読み手の実存に「引きつけて」読むということだけでなく、文字通り、「音読されねばならない」ということをも意味していたのである。
そのほか、『青春の終焉』には「眼からうろこ」的知見が随所にちりばめられている。
ウチダが心からオススメの一冊。諸君ただちに書店に走れ。
(2002-03-11 00:00)