3月10日

2002-03-10 dimanche

鈴木宗男と外務省の醜聞から始まって、徳島県知事の収賄、加藤紘一元秘書の収賄・・・と、毎日新聞を開くたびに「はあ」とため息をつくような事件が目白押しである。
貪官汚吏佞臣奸臣は権力あるところに必ず発生するものだから、いまさら驚いたり嘆いたりしてみせるようなナイーヴさは、劫を経たおじさんであるウチダは持ち合わせていない。
しかし、それにしてもこの連中の「性根の悪さ」は見逃すとしても、「頭の悪さ」を私は許すことができない。
こんなことを今さら言うのもなんであるが、およそ官途にあるもの心得は「李下に冠を正さず、瓜田に履を納れず」ということに尽きる。それ以外はすべて副次的なことである。
中学生のときに読まされた国語の本にもそう書いてあったはずである。知らないとは言わせない。

「李下に冠を正さず」というのは、「すもも」の成っている木の下では、冠がゆるんでいても、ひもに手を掛けると、「すももドロボウ」だと思われるから、冠がずり落ちてきても我慢してそのまま立ち去れ、という教えである。
「瓜田に履を納れず」というのは、「瓜」の成っている田んぼでは、立ち止まると「瓜ドロボウ」だと思われるから、くつが脱げても履き直すなという教えである。

お分かりだろうか。
この古諺は「官人というのは、とりあえずドロボウの容疑者とみなされているから、そのつもりで挙措進退を心がけるように」と言っているのである。
あんたたちは「いつも容疑者」(usually suspect) なんだから、そのつもりでおるように、と言っているのである。
通常の法諺は「疑わしきは罰せず」であるが、役人や政治家にはこの原理は適用されない。
官人は「疑われたら」自動的にその社会的地位を喪失する。
だから、「疑われたら、おしまい」なのである。
「疑わしきは、即、処罰」という例外的存在なのである。官吏や政治家は「市民」ではない。
市民の人権を保護する規則は彼らには適用されない。
だって、官吏や政治家は他人の「人権」を制限する権能を持たされているのであるから、そのような存在には市民と同じ「人権」は認めるわけにはゆかないのである。
公人に私的利害の追求の権利を認めるということは、サッカーの試合で、「レフェリーもシュートしてよい。ゴール数が多かったら、レフェリーの勝ち」というルールでゲームするようなものである。
ゲーム開始前に、ボールをもってグラウンドへ出てきたレフェリーがさりげなくボールを無人のゴールに蹴り込んで、ゴールの瞬間に「ピピー」と試合開始を宣言したら、誰も止められない。
だから公人は「ゲーム」に参加することが許されないのである。
「レフェリー」としての市民たちのあいだの利害の対立や確執を調整する役目のものが、ゲームしてどうするというのだ。
官吏や政治家に通常の意味での「市民権」はない。
株式市場の動向を左右するようなインサイダー情報を得られる(かもしれない)立場にある人間には、株の売買をする権利はない。新幹線計画を知っている(かもしれない)人間には、建設予定地の土地の買収をする権利はない。
「知っている人間」がではない。「知っている(かも知れない)」人間にはすでに経済活動をする市民権はない、と私は言っているのである。
本人が「知らない」と言い張っても、「知っていたかもしれない」「知っていた蓋然性が高い」場合、それは「知っていた」と同じに扱う。
なぜなら、公人とは「眼を離したら、即ドロボウをするやつら」という規定をこうむるものだからである。それが「李下瓜田」の古諺の定めるルールである。
官途につく、ということは「ユージュアリイ・サスペクツ」として「世間の疑いのまなざし」に身をさらし続けるような生き方を選ぶ、ということである。
「冠がずり落ちても」「沓が脱げても」、ふつうだったら、我慢できないくらい気持が悪いだろうが、そこで「ふつうの人」みたいな反応をしたら、その瞬間に回り中から「ドロボウ!」と怒鳴られる仕事をしているんだから、そこは泣いて我慢せよ、と言っているのである。
その意味では、今回名前があがっている人々はことの真相が露顕する以前にもちろん全員「くび」である。
たとえ潔白でも、「あ、ドロボウ!」と誰かに言われたら、もう「おしまい」というのがこの商売のルールなんだから。
「ドロボウであるかどうか」ではなく、「ドロボウに見えるかどうか」を基準にする、というのが公権力にかかわる人間の資格を審査する準位なのである。
「訴状を見ていないからコメントできない」とか「法の裁きを待って進退を決する」とかいうものは、このルールがぜんぜん分かっていない。
それはボクシングの試合が終わったあとになっても、「私と彼とどちらがほんとうの勝者であるかは、どちらが先に死ぬかを見きわめない限り結論がでないことである」と称して、敗北を認めないボクサーみたいなものである。
もう試合は終わったの。
「あ、ドロボウ!」と一声出た瞬間に、官途にある者の生命は終わるのである。
「そんなのひどい」と泣かれても困る。
そういうルールでやりましょう、と大昔から決まっているのである。
そういう「きついルール」でやらないと国家組織はぼろぼろになってしまうから仕方がないのである。
公的生活とは、「ほんとうは何が起こったか」ではなく、「何が起こっているように見えるか」を基準線にして展開する。そこ「だけ」が勝負どころなのである。
だから逆に言えば、政治家は有能である必要はない。
「有能であるように見えれば」それで及第点なのである。
官僚は清廉である必要はない。
「清廉であるように見えれば」それでOKなのである。
民は太っ腹なのである。
役人や政治家が「ほんとうは」バカでも貪婪でも実はまるで構わないのだ。
それが「疑われさえしなければ」、政治はうまくゆく。
「露顕さえしなければ」ではないよ。
たとえ真相が「露顕」しなくても、「あいつ実はバカじゃないの?」「あいつ実は貪官なんじゃないの?」と「疑われたら」、ほんとうはどれほど有能でも清廉潔白でも、システムはもう持たない。
官人の仕事は有能であることでも清廉であることでもなく、システムをうまく運営する、ただそれだけのことである。そして、そのためには「有能であり、清廉であるように見える」ことが、それだけが死活的に重要なのである。
簡単な話なんだからさ、頼むよ。

「あんたがバカでも強欲でもぜんぜん構わないから、最後までおいらたちを騙してくれよ」

私はただそうお願いしているだけなのである。
「すもも」や「うり」が好きでもいいから。そのときは自分の家に帰ってから、ひとりでゆっくり食べてくれ、お願いだから人目にたつところでは喰わないでくれ、とそうお願いしているのである。
庶民の哀しい願いなんだからさ。頼むよ。