3月9日

2002-03-09 samedi

『ミーツ』と『ジェンダー・スタディーズ入門』の原稿を同時発送。
どちらもお題は「恋愛について」
『ジェンダー・スタディーズ入門』は本学ジェンダー研究会の強面のおねーさん、おにーさんたちが出版する恐怖の「フェミニスト本」である。
目次と内容の要約を読んだだけで、冷や汗が出て、足が震えてくるような教化的、道徳改良的、啓蒙的な良書であり、私のようなものが一体なぜここに寄稿を求められたのかは不可解という他ない。
とりあえず、「恋愛について」、あまり教化的とはいえず、どちらかといえば道徳紊乱的であり、かつ読者が一層蒙昧の度をましかねない文章を書いてお送りした。
森永編集長が烈火のごとく怒って「ボツ」になる可能性が高いのだが、ムダをしない主義であるウチダは、すばやく街的ロング・ヴァージョンを改作して、それを『ミーツ』に送稿したのである。

しかし、このフェミニスト本は「怖い」。(要旨しか読んでないのに、怖がるのは過剰反応かもしれないけれど)
この「怖さ」は何かに似ている。
考えてみたら、私が学生時代に強制的に読まされたマルクス主義の「学習本」に酷似していた。
父権制イデオロギーという「諸悪の根源」があり、すべての社会矛盾が(結婚制度も性も恋愛も不況も失業も学校崩壊も)、それで説明できるという simplisme の力業に私の「身体」が拒否反応を示してしまうのである。
たぶん執筆されているみなさんは年齢的に言って、学生時代に「マルクス主義の学習本」を読んで、「あらゆる社会矛盾を革命論的に説明する」という課題を毎度毎度出されては、その説明の出来不出来を政治委員に「査定」されるというような哀しい経験をお持ちではないだろうと思う。
ウチダは経験がある。
そして、そこでウチダがいちばん驚いたのは、政治問題も経済問題も社会問題も文化も芸術も、ありとあらゆる事象は、すべて「革命的か反動的か」の二元論で「処理」することが「できる」という事実であった。
これが、まあ、あっと驚くほど「簡単」なのである。

東映やくざ映画が「革命的」で、松竹映画は「反動的」、藤圭子の演歌が「革命的」で、天地真理のポップスが「反動的」、アルバート・アイラーが「革命的」で、チャールス・ロイドが「反動的」、状況劇場は「革命的」で、俳優座は「反動的」・・・そういった「なんでも二元論」的言説を私は60-70年代にゲロを吐くほど読まされたし、おのれ自身書きもした。

そして、もうこりごりしたのである。
そして、二元論的革命論とオサラバして、「そうは言っても、ま、大島渚さんには大島さんの、小津安二郎さんには小津さんの。カラジューローさんにはカラさんの、アサリケータさんにはアサリさんの、それぞれお立場というものがあるわな」という、「それぞれのお立場尊重主義」というものに宗旨替えをしたのである。
その「それぞれのお立場尊重主義」的立場から言わせていただくならば、フェミニズムのみなさんは日本におけるマルクス主義的文化論言説の弊害というものをどのように批判されてきたのか、それがいささか疑問なのである。

「全共闘のマルクス主義? あれは父権制イデオロギーの尻尾をひきずった感傷的なプチブル的急進主義よ。バッカみたい。フェミニズムはそういう前時代的な男性中心主義を乗り越えた思想的地平を切り開いたんじゃないの」

あのね、それではまんま「前車の轍を踏んでいる」ような気がおじさんはするんだけど。
問題はイデオロギーの「コンテンツ」ではなく、イデオロギーを語るときの「マナー」なのだ、ということをさいぜんからウチダは申し上げているのである。
私はイデオロギーを語ることが「悪い」と申し上げているのではない。(そんなこと口が裂けても言えるはずない)
そうではなくて、どうせわれわれは全員程度の差はあれイデオロギーを語っているわけなんだから、せめて「自分はイデオロギッシュである」ということについての自覚だけは持ちましょうよ、と申し上げているのである。
その自覚があると、おのずから語るときに「タメ」というか「腰の引け」というか「言いよどみ」というか、そういう風情が漂ってくるでしょ。
ウチダはイデオロギーの内容についてはとやかく言いません。お好きなことを語っていただいて結構。
でも、その「言いよどむ風情」というものには、いささかのこだわりがある。
それは「言いよどまない人間はコワイ」ということを骨身にしみて知っているからである。
科学的言説を語っているつもりの人間は、そこに充溢しているおのれの欲望を構造的に見落とす。
だから、ウチダはずっと以前に「科学的言説」を語ることを止めたのである。
そして、「客観的学知を語る者はつどつねにその言説を駆動している自分の欲望を勘定に入れ忘れるという事実」をオデコに貼って、「ウチダの書き物はそのつどつねにウチダ自身の欲望を勘定に入れ忘れておりますので、その空白は読む人が『代入』して読み進んでください」というお断り書きをしたうえで、ものを書いているのである。
たしかにややこしい話だ。
「私の言うことを信用するな」と言いながら際限もなくしゃべり続ける人間の「逃げ腰の図々しさ」には正直うんざりする方も少なくないであろう。
しかしとにかくこれは私が貧しい政治的経験から習得したぎりぎりの「マナー」であって、「止めろ」と言われて「はいそうですか」と止めることのできぬものなのである。
話がくどくてすまない。