3月7日

2002-03-07 jeudi

甲野先生からお手紙といっしょに「手裏剣」が贈られてくる。
江崎義巳氏作の業物である。
ウチダもこれまでいろいろなものをいろいろな方から頂いたが、手裏剣を頂いたのはこれが生まれてはじめてである。(ふつう、そうだね)
12年前、自由が丘道場を離れるときに、送別稽古会のあとに道場のみなさんから記念品として刀を贈って頂いた。
そのときもほんとうに嬉しかった。
武道家にとっては、武具を贈って頂くというのは、ある種名状しがたい、身体の奥底から湧き出るような喜悦を覚える経験である。
仏文学者が記念品に仏和辞典をもらうというのとは、ヨロコビの質が違う。
なんだか「わおー」と叫びたくなるような根源的な感動がある。
一人の武道家として、甲野善紀先生に「認知」していただいたということの嬉しさと感謝で身が引き締まる思いがする。
甲野先生ありがとうございました。
この逸品の名に恥じぬように手裏剣もしっかり稽古致します。

合気道の稽古も熱が入っている。
「不安定の使いこなし」が、そのヒントを甲野先生にご教示頂いてからの、ウチダの合気道のメインテーマである。
今日は後ろ両手取り。
斜め後ろに捌きながら、「おいどおとして、かかとあげて」(@井上八千代/by courtesy of 小林昌廣)、片足を仮足にして、斬りの冴えを出し、親指の方向に相手を導きながら、相手を崩す、という技法をいろいろと工夫する。とりあえずその場で思いついたことをどんどんみんなにやってもらう。
みんなの技が眼に見えて変化し、道場全体がいよいよ怪しい雰囲気になってゆく。
二時間半休みなしの稽古なのに、みんな息も上がらないし、休む人もいない。わいわい笑いながら稽古している。
みんな自分たちのわざが「いきなり」効き出したことをちゃんと感知しているからだ。
武道はほんとうに愉しい。

家に帰ってから「松聲風伝」14号を読むと、中島章夫さんが最近の甲野先生の技法について解説を加えている中につぎのような文章をみつけた。

「不安定な方が強いことに関しては、自分のバランスをとるのに懸命で、受の相手をしていられないからだと言っていました。受としては相手にされないということで予測がはずれるのでしょう。このあたりの消息を、やくざが殴り込みに行ったら、相手の事務所が火事で大騒ぎになっていたら、もう殴り込みどころじゃないでしょう、というたとえで言い表しています。わかるようなわからないような・・・
これはおそらく自分が安定していても、押そうとした相手が不安定だと力が出せないからです。不安定な側は相手が安定しているので、安心して押すことができる。しかも力を出していないのだから好都合です。
なぜそうなるかというと、たとえ倒そうとするときでも、相手に触れると、相手と自分でバランスをとろうとするからだと思います。相手が安定していると互いに『安定』というバランスの中で押し合いができます。ところが相手が不安定でぐらぐらしていると、『不安定』な方に合わせてバランスを取るのです。」

これを読んでいるうちに、多田先生が「相手に囚われてはいけない」ということをしばしばおっしゃられるのを思い出した。
相手がそこにいようといまいと、まったく関係なしに身体を遣う。それは相手の身体を「杖」にしたり、相手の安定を「勘定」に入れたりすると、「相手が主、自分が従」になってしまうからだ。相手を中心にして、自分がそれを必死になって追いかけ回し、それに「合わせる」ような身体運用になってしまうからだ。
二人の人間が触れ合う。それぞれの身体のあり方は違う。
それはいわば変数が二つある一次方程式を解こうとするようなものだ。
もちろん、変数が二つあると一般解は出ない。
すると人間は必ず一方の変数を定数にして解を出そうとする。
変数が「不安定」、定数が「安定」というふうに言い換えてもいい。
自分の身体を「定数」にして、相手の動きを「変数」にする、つまり相手の変化に「応じる」ことができるように、自分の身体システムそのものは「恒常性」を保っているほうがいい、というのが常識的な身体運用だろう。
それを逆転する。
自分の身体を「変数」にする。すると、相手は解を求めて、自らが「定数」になろうとする。
身体システムが恒常性を回復しようとするのだ。
その「定数になろうとする」変化の「起こり」を咎める、というしかたで技をかける。
甲野先生の術理はおそらくそういう考え方だろうと思う。
それは「相手に囚われない」という多田先生の教えと技術的な水準では似ている。
似ているが、微妙なニュアンスの差がある。
この「微妙なニュアンスの差」のあわいに身を置くというところが、また愉しい。