3月7日

2002-03-07 jeudi

みじろぎもせずに一日翻訳をしている。
ほんとうによく働く。
私のことを「遊んでばかりいる」人間だと思っている人々はゼウスの雷に打たれるであろう。

レヴィナスの『メシア的テクスト』を訳しているところだが、これはフランス語圏ユダヤ知識人会議というところでの口頭発表を採録したものであるので、ところどころに「さきほどジャンケレヴィチ氏がおっしゃったのとは違う意味ですが」というようなコメントが入っている。
ジャンケレヴィッチが何を言ったのであろう。
気になる。
さいわいこの学会は発表記録が公刊されているので、それを読む。(450頁もあるんだよ)
1960年のことであり、これはレヴィナス先生が「タルムード講話」をこの学会でやるようになって四年目のことである。
先生の肩書きは「東方イスラエル師範学校長」。私塾の先生である。まだ『全体性と無限』も出してないし、博士号も取ってない。市井の一篤学者である。
だから、口頭発表のあとの質疑応答で、参会者からは「何いってんだか、むずかしくて、わっかんねんだよー」「この問題はどーなっとんの、論及されてないじゃないの、おう?」というような(ほどではないが)、相手を見下したような、ぶしつけな質疑が飛び交う。
レヴィナス先生が汗を拭きつつ、「どうも私の意図がよくご理解いただけていないようですが・・・」と壇上で当惑しているようすが行間から伺える。
そして、「そうはおっしゃいますが、私の師匠がそうおっしゃっていましたから、師匠がそう言えばカラスも白い・・・」と、ふたことめには「師」を持ち出して防戦にあい努めておられる。
そうか、老師さまにもそういう時代があったんだ。
老師さまにも「老師さまの老師さま」以外に頼るものとてない孤立無援の日々があったんだ。
それを読んでいるうちにちょっとほろりとしてきた。
レヴィナス老師は質疑に応じて、最後に感動的な長演説をする。

「この発表はわが『師』への私からのオマージュなのです。私が師について学ぶようになったのはずいぶん年を取ってからですので、師の叡智のほんのひとかけらほどしか身につけることができませんでした。私は師の方法のわずかな微光を感知したにすぎません。ですから残念なことに、その知と触れ合う機会を失った今、私の手持ちの光では、師の光が照らし出したはずの範囲を照らし出すことができないのです。(...) しかし、賢者の叡智を信じるということ、それは、人がユダヤ教の信者であろうとする限り、信仰が踏みとどまるべき最後の境位なのです。口伝律法の博士たちは真の賢者でした。私はそう確信しております。きわだった知性の持ち主でした。かれらはすべてを考え抜いておりました。すべてを考え抜く能力を備えておりました。すべてを考え抜く方法を知っておりました。そして、その時代において、すでに人間的事象のすべての細部は踏破され、すべては思考されていたのです。」(La Coscience Juive, 1961)

あれこれと発表内容にけちをつける発言者に囲まれて、最後の最後で、師と律法の賢者たちへの法外な信頼を語るレヴィナス老師の姿に私はほろりとしてしまったのである。
弟子が師から学ぶのは何らかの実定的な知やスキルではない。師の師への欲望である。
レヴィナス先生は最後の最後にあらゆる実証的基礎づけを超えたところに、師への絶対的信頼を置き、それが「信仰の踏みとどまる最後の境位だ」と断言した。
師は神の地位にあるのである。
なんと幸福な師弟関係であろう。
そして、いまから42年前、老師のこのような思考の深みを理解できる人は、その場にいあわせたフランスの卓越したユダヤ知識人たちの中にも決して多くはなかった。

驚いたことに、私の「だって、そう言ったって、レヴィナス先生がそう言ってるんだから、仕方がないじゃないですか」という言い訳の仕方は実は老師直伝のものだったのである。
バカ弟子は変なとこだけ師匠に似。