3月3日

2002-03-03 dimanche

東京のe-womanというウェブ・マガジン(ていうのかな)の編集者が二人、合気道のお稽古を取材にくる。
なぜわざわざ港区南青山から西宮まで神戸女学院合気道会の取材に来るのかというと、編集長が『ため倫』をお買い上げ下さって、私のホームページを訪れ、たままたそちらでは「身体」をテーマにした連続インタビューをしていたので、「じゃ、つぎはウチダにしよう」と、私のところまで長旅をしにいらしたのである(ついでに越前蟹も食べるらしい)。

私の前の回は養老孟司先生の由。
甲野善紀先生と養老先生は『古武術の発見』以来三冊の対談本を出す仲良しである。
養老-名越康文対談本というものも甲野先生は企画中とうかがっている。(おお、シンクロニシティ)
インタビュアーは養老先生のところに行ったのと同じ平木さんという女性記者なので、話題はもっぱら彼女の前回のネタ本で、私も著者ご本人から頂いて読んだばかりの甲野-養老共著の『自分の頭と身体で考える』をめぐって展開する。(おお、シンクロ・・・もう、いいか)
この中で両先生がお話ししていることに、年来私の身体技法論はずいぶん深いところで影響を受けているから、話は通じやすい。
ネットワークというのは、不思議にばしばしと繋がってしまうものである。
インタビューには飯田先生とウッキーも同席してもらって、いろいろサポートとしていただく。(どうもありがとうございました)
身体のリズムと宇宙のリズムが同調する感覚、というようなことを言ったらインタビュアーが怪訝な顔をする。
「それ、どういうことですか?(お、怪しい宗教か?)」
すかさず飯田先生が「ほんとです」と合いの手を入れてくれて、コズミック・リズムとのシンクロ感覚を証言してくれたので、疑念がいくぶんか払拭された(ようにみえた)。
しかし、単に「こいつら三人そろって怪しい宗教だ」という確信を深めただけかもしれない。
「合気道とは身体感受性を高め、身体を賢くするエクササイズです。『一を聞いて十を知る賢い身体』をつくること、それが稽古の目的なのであります」と言ったところでテープがカチンと止まり、みごとにフィニッシュが決まった。

ためらいの倫理学

家に帰ってごろごろしていたら、その甲野先生からお電話がある。
先日の愉快な一夕のお礼を申し上げる。
あの夜の談論風発ぶりは甲野先生の随感録と名越先生の日記にも記録されている。
甲野先生はあれから岡山に回って、そこで先日も話題に出た希代の達人とまたまた刺激的な稽古をされたらしい。
「世の中は広い。ほんとうにすごいひとがいます。」
と甲野先生も興奮気味。
この出会いを起点にして、いろいろな出来事を企画しておられるようである。
しかし、甲野先生という人もどんどん「渦巻き」を起こす人である。
そう申し上げたら、先生から「何を言ってるんです。ウチダ先生こそ、とんでもない勢いで仕事をしていて、巻き込まれているのは私の方ですよ」と笑い返されてしまった。
ともあれ、甲野先生も私も「事態を沈静化させる」方向にはまったく興味がない人間であることだけは間違いない。

昨日の合気道の稽古ではもちろん先週甲野先生からご教示いただいた、さまざまな術技を練習してみる。どんどんわざが変化してゆく。
甲野先生は「空間的」な比喩の使い方が絶妙である。
「空中にいるあいだに仕事をする」という表現はみごとだ。
多田先生はこのような体の変化-動きと動きのあいだが「一こま」抜ける感じ-を「わざに甘みが出る」と表現される。
それは呼吸法と、未来の=理想的な自分の身体状態をリアルにイメージできる想像的造形力によっておもにコントロールされるのである。
多田先生の説明はどちらかというと「時間的」である。
「思い描いた型のなかに自分を放り込む」という多田先生の説明は、ラカンのいう「前未来形」で「過去を語る」という人間のあり方に通じているし、「鏡像段階論」におけるラカンの比喩ほとんどそのままである。
つまり、合気道のわざを正しく遣うということ自体が、そのまま「人間が生きること」の本質に触れているのである。
ひとつの原理が人間的事象の全行程に貫徹している、ということ。
これは身体技法を学んできた私の確信である。(同じことをレヴィ=ストロースも社会制度について断言している。)
例えば能楽の足運びの序破急の「序」の部分を取り出して仔細に見ると、その中にすでに「序破急」の構造がある。
剣の基本動作である「斬る」という単一動作の中には、右手が「押し斬り」、左手が「引き斬り」という異なる二要素がすでに働いているが、その右手だけを取り出して見ると、その掌の上半分は「押し斬り」、下半分は「引き斬り」をしている。
私にはまだそこまでしか見切れないが、その「先」もきっとあるに違いない。
顕微鏡ができてスペルマが観察されるまで、ひさしく生物学者たちは男性の精液の中には男性と同型の小人(ホムンクルス)がいる、と信じていた。
この荒唐無稽な想像はしかし人間の本質を直観していると私は思う。
合気道の身体技法も同じはずである。
「宇宙の中心を貫くもの」と一体となり、そのコズミック・リズムに同調して脈動するというのは宗教的なヴィジョンではなく、技法の「基本」であり、技法の「術理」なのである。
宇宙を構成するものは、その最小単位から最大単位までが、同一の構造法則で貫かれている。
だから、「正しい技法」と「正しい生き方」が同一の構造をもつのは「あったりまえ」のことなのである。
私たちが「身体」と呼んでいるものや「意識」と呼んでいるものは、その無限のグラデーションから恣意的に切り取られたたかだか一こまの「切片」にすぎない。
私はつねづねそういうふうに考えている。(って、いま思いついたんだけど)
昨日のインタビューのときに、そう答えればよかった。
いつでも「あと知恵」なんだな、これが。