2月28日

2002-02-28 jeudi

大学院入試。
大学院の春季試験だが、比較文化学専攻博士前期課程は志願者ゼロ!
新しくできた博士後期課程は定員二名に対して志願者二名。
学部の方は堅調であったが、大学院は困ったことになった。(秋季で前期課程は3名確保してはいるが・・・)
さっそく入試部長もまじえて、五名の研究科委員で対策を協議する。
私の読みでは、学部教育の水準低下を承けて、20年前ほどの学部専門教育レベルの教育は博士前期課程が担うほかなく、向学心のある学生たちの大学院志向は強まる、というものであったが、あえなく空振り。
カリキュラムにも工夫を凝らしたし・・・いったい、なぜ?
とりあえずたしかな原因の一つは「不況」である。
内田ゼミからはほぼ毎年2、3名の大学院進学者がいる。今年も例年通り12名卒業生がいるが、他大学含めて進学予定者はゼロ。
就職が決まっていなくて、勉強が好きそうな子たちには、秋頃から「院に進んだら?」と声をかけたのであるが、返ってくる答えはみな同じで「親にきいたら、もうこれ以上学費出せないって・・・」
親御さんも大変なのである。
いろいろと提案がなされたが、

(1)やはり、大学院学費の大胆な値下げ

(2)院への男子の受け入れ:すでに多くの女子大が大学院に限っての男子受け入れに踏み切っている。(私の演習にも他大学の院生からの聴講希望の問い合わせがときどきある。日本の人文系の大学院で「武道技法論」で博士課程まで行けるところなんてたぶんうちしかないからね。)それに、うちの専攻は日本史・日本文学・日本語学・日本文化論を柱の一つとしており、海外からの留学生を惹き付けられるのはこの領域だけである。(日本に英文学を学びにくる留学生はいない。)この領域には男女を問わず海外の日本文化研究者をぜひ迎え入れたい。

(3)パブリシティの展開:比較文化論的観点からの「日本文化研究」という、本専攻が特化している学術領域には十分なニーズがあるはずだが、その掘り起こしが不十分である。教員たちはあらゆるメディアを通じてそれぞれの研究活動を発信してゆくことが必要だ。

(4)学部学生を大学院での教育活動(研究会、読書会、修論発表会などなど)に積極的に巻き込んで行く。

などが、委員たちから提言された。できることからどんどん実施してゆくつもりである。

このホームページを読んでいる本学ならびに全国の大学生のみなさん!
神戸女学院大学院比較文化学専攻(博士前期・後期課程)はみなさんを熱烈歓迎します。

二週間ぶりにまる一日ネクタイを締めてスーツを着ていたので肩が凝る。
遅刻して合気道の稽古に駆けつけ、甲野先生から先日の稽古会で教えて頂いたわざをいろいろとやってみる。
みんな素直だから、すぐに「ふしぎな」わざを使い出し、「あやしい」動きをし始める。
膝を柔らかく使うといろいろなことができるということは分かっているのだが、悔しいことにウチダは右膝を痛めているので、思い切って膝を抜く技が使えない。
トカゲの回復力も膝にまでは及ばないのか。

コバヤシ先生もオススメの永沢哲『野生の哲学』を読む。
私が「トカゲの生命力」とか「ワニの無意識」と呼んでその解放にこれつとめているものを永沢は「夢見の体」(Dream body) と名づけている。(ウチダの語彙よりずっと詩的だ)
それは単純にはあくびをしたり、足を組み替えたり、寝相が悪い寝方をしたり、冷や汗をかいたり、顔が火照ったり・・・という無意識の身体反応のことを指すのだが、この無意識な運動を野口晴哉(のぐち・はるちか)は体に蓄積された疲労や歪みや偏りを修正する生命の根源的な現象として重要視したのである。
野口の思想の大胆なところでウチダが深く共感するのは「病いもまた一種の癒しである」という疾病観を示したところである。
病気になるのは、限界を超えた疲労や歪みや偏りやこわばりを修正するための「シャッフル」である。あらゆる治癒プロセスにおいて、回復期の前には必ず大きく体のバランスが崩れるときが来る。発熱や痛みや腫れや発疹がある。これは体が深い弛緩に入る前の徴候である。
深い弛緩が訪れると、全身から膨大な老廃物が排泄される。
大量の糞便、汗、ふけ、尿、結石、鼻汁、臭気・・・そして、そのあと「脱皮した」ような新しい身体に転生するのである。
何と気持よさそうではありませんか。
私の膝痛もあるいは、そのような「歪み」の修正の一つのサインなのかも知れない。
そう考えるとなんとなく愉快な気分になる。

ひさしぶりに仕事をしたので、午後10時にはまぶたが重くなる。
矢作俊彦の『ツーダン満塁』をベッドに携えて、読みつつ眠る。(この題名を見て、「ツーダン満塁、それチャンス」という『ホームラン教室』の主題歌が頭の中で響き出すのは同世代の人間だけである。)
枕元にはこれと橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』の二冊が置いてある。
もったいないのでちょっとずつ読んでいる。

鈴木先生から「シンクロニシティ」を確認するメールが届く。

「ピンポーン(英語だとビンゴ!)
ピーター・ゲイの『フロイト』の残りを早急に仕上げなければならず(あと1章)、調子を出すために上巻を読み直しておりました。
「ヒステリーの病因」について講演し、ウィーンの医師たちにさんざんバカにされて、「あいつら、みんな、地獄に堕ちろ」と罵ったのは、1897 年 4 月 21 日でしたが、同年の夏から秋にかけて、考えがだんだん変わっていったのでした。これを証拠づけるのは、フリース宛ての書簡です。変化の主要な原因は自己分析です。」

ほらね。
言った通りでしょ。
私が「ヒステリーの病因」についてフロイトの考え方が変わったのはいつだろうと考えていたまさにそのときに、鈴木先生はその当該箇所を読んでいたのである。
シンクロニシティは「あったりまえ」のことである。
これを「異常なこと」だと思うから、逆に「科学的な説明ができない」といって否定にかかるバカと、「超常現象だ」といってありがたがるバカとが出てくるのである。
「あったりまえ」の日常茶飯事なのであるから、説明なんか要らないのである。
ふつうに「使えばいい」のである。
「鈴木先生は、当然いまこの瞬間にもフロイトの当該箇所を読んでいるはずだ」というのは、よくよく考えればものすごく高度の蓋然性推理の上に成立しているのである。
(だってそうでしょ? 私の知り合いのなかでいちばんフロイトの著作に通じているのは鈴木先生だし、それだけフロイトの著作を繰り返し読み返している頻度が高いし、『ラカン/ヒッチコック』の訳の仕事をかかえているから、「マクガフィン」関連項目(「抑圧された記憶」もその一つだ)については最近はとくに深い注意を払っているはずだし、いま春休みで本読む時間がたくさんあるし・・・)
そういうさまざまなファクターを総合した合理的推論をした上で、確認のために「フロイトの著作の当該箇所を教えて下さい」というメッセージを託して鎌倉方面に「生き霊」を送れば、シンクロニシティはちゃんと成り立つのである。
ね、簡単でしょ?
「生き霊の送り方」にちょっとコツがあるけどね。