文春新書の『いきなり始める構造主義』(仮題)が完成。(こんどはほんと)
しかし「仮題」といいながら、これほど何度も書いていると、だんだん「情が移ってくる」ね。
この題名はそのむかし、九品仏のアパートでごろごろしていたときに、竹信悦夫くんが発案したものである。
ただしそのときは、竹信くんの大学院受験のためのフランス語特訓合宿中のことであったので、彼がつぶやいたのは「『いきなり始めるフランス語』とか『寝ながら学べるフランス語』とかいう参考書が、どこかにないかなあ」という悲痛なことばであった。(そして、ウチダにフランス語の特訓を受けるという無謀な選択が災いして、日本の西洋史学界は有為の学者を一人失い、朝日新聞社は卓越したジャーナリストを一人獲得することになったのである。)
爾来30年、いつかはこの題名で本を書こうと思っていた。
二年前、『現代思想のパフォーマンス』のときに、おずおずと難波江先生に「『いきなり始める現代思想』とか『サルにも分かる現代思想』とかじゃダメ?」とお伺いを立てたのであるが、私のアーシーな言語感覚が都会派ナバちゃんのセンスに受け容れられるはずもなく、無言のうちに却下されたのである。
苦節二年、『いきなり始める・・・』にもう一度チャンスが来た。
あとは文春の嶋津さんが笑って許してくれるかどうかである。
というわけで、昨日は一日、最後の「詰め」の書き直しとラカンの書き加えをして過ごした。
そして、またまた悲しい誤訳を発見したのである。
『エクリ』の誤訳をあげつらうのは「阪神タイガースが優勝しない」ことを本気で怒るようなもので、まともな大人のすることではないということはウチダも重々承知はしているが、それにしても・・・である。
ラカンのローマ講演「精神分析における言葉と言語活動の様態と領野」は、精神分析における「語ること」の重要性を論じた、ラカンの分析技法と自我論の基礎的文典である。
その一節をまず現行の竹内迪也訳で読む
「私は、私自身を、言語活動において同一のものとしているが、そうすることは、私自身を一個の対象物として失うことに過ぎない。私の話す歴史の中で現実化されることは、実際にそうであったことによって限定された過去ではない。というのは、そのような過去は、もはや現在ではないのであり、そうであったことについての完璧な内容でもないからである。しかし私がやがて或る時までにはそうなっているであろうこと、そのような前未来、つまり現在、私がそれになりつつある未来にとってのそれ以前の未来が、私の話す歴史の中で現実化されるのである。」
むずかしい文章である。これを一読して「あ、なるほど、そういうことね」と思えた人はいないだろう。
私も断片的には理解できたが、なかほどは全然意味が分からなかった。
しかし、ラカンとはそれほどデタラメなことを書くひとなのだろうか。
私はフランス語の『エクリ』を取り出して該当個所を読み、一驚を喫した。
「前未来」というキーワードから分かるように、ラカンはここで分析的対話において分析主体が語ることばは動詞の時制に「たとえて」言えば、前未来形で語られているのだ、ということを述べているのである。
分析的対話で主体が語るのは、「それまで誰にも語ったことのない過去の出来事」である。それまで、ずっと忘れていた過去の記憶が、忍耐強く、好意的な聞き手を得たせいで、次々と甦ってくる。
そのとき思い出された過去は、「ほんとうにあったこと」なのか、とラカンは問うているのである。
そうじゃないだろ、とラカンは言う。
私たちは選択的に過去を思い出している。
ラカンはいま問題にしている箇所の直前にこう書いている。
「私がことばを語りつつ求めているのは、他者からの応答である。私を主体として構成するのは、私の問いかけである。私を他者に認知してもらうためには、私は『かつてあったこと』を『これから生起すること』めざして語る他ないのである。」
私が自分の過去の出来事を「思い出す」のは、いま私の回想に耳を傾けている聞き手に、「私はこのような人間である」と思って欲しいからである。
私は「これから起きて欲しいこと」-つまり他者による私の自己同一性の承認-をめざして、過去を思い出しているのである。
それは別にラカンに教えてもらわなくても、私たちはみんな知ってる経験的事実だ。(知らないのはアメリカのフロイト派の分析医くらいである。)
そういう文脈で問題の訳文が出てくるのだ。話題が過去、現在、未来という「時制」にかかわっていることはすぐに分かる。
原文を載せよう。(アクサンは省略)
Je m'identifie dans le langage, mais seulement a m'y perdre comme un objet. Ce qui se realise dans mon histoire, n'est pas le passe defini de ce qui fut puisqu'il n'est plus, ni meme le parfait de ce qui a ete dans ce que je suis, mais le futur anterieur de ce que j'aurai ete pour ce que je suis en train de devenir.
なんとロジカルな文章ではないか。ウチダはこのテクストをこう訳した。
「私は言語活動を通じて自己同定を果たす。それと同時に、対象としては姿を消す。私が語る歴史=物語の中に現れるのは、実際にあったことを語る単純過去ではない。それはもう存在しないからだ。いま現在の私のうちで起きたことを語る複合過去でさえない。歴史=物語のうちに現れるのは、私がそれになりつつあるものを、未来のある時点においてすでになされたこととして語る前未来なのである。」
le passe defini は「限定された過去」ではなく、文法用語では「定過去」。「単純過去」と呼ばれる時制の別称である。le parfait は「完璧な内容」ではなく、「完了時制」、つまりここでは「複合過去」のことである。
同じ愚痴を繰り返すが、このような簡単な所で誤訳が生じるのは、訳者の語学力の問題ではない。(辞書を引く手間を惜しむのは若干問題だが)
誤訳が起こるのは、訳者が心のどこかでラカンの言っていることは「難解すぎて常人には理解の及ばないことだ」とはじめから理解を断念しているからである。(偉そうだが、これはウチダ自身への自戒をこめてあえて言うのである。)
だから、訳者はラカンが「誰でも知っている当たり前のこと」を書くと、無意識にそこから目を逸らそうとする。
「ラカンのような偉い人がそんな簡単な話をしているわけがない」と思ってしまうのだ。
誤訳は訳者の怠惰の徴ではなく、努力の成果なのである。
この誤訳そのものが「無知とは何かから目を逸らそうとする無意識の努力の成果である」というラカン理論の正しさを証明しているようにウチダには思われる。
不思議なことだが、ラカンはつねに正しい。その誤訳を通じてさえ。
(2002-02-26 00:00)