2月22日

2002-02-22 vendredi

ラカンとフロイトを読み続ける。
両方読み比べると、フロイトの訳文はじつによく練れている。
やはり、「じっくり熟成」させて、私たちの身体にしみこんだ思想は、私たちの使うふつうのことばに置き換えることがそれほどにはむずかしくない、ということであろうか。
『セミネール』の訳文は、『エクリ』よりもはるかに読みやすいけれど、これは訳者の功ももちろんあるが、いくぶんかは「熟成度」の違いによるのだろう。

フロイトを読んでいるのは、いったいどの段階で、フロイトが「抑圧された記憶」を実体的なものと考えるのを止めて、「空想」的なものだと思うようになったのかについて文献上の典拠をさがしているからである。(ウチダは手抜きの「フロイト読み」なので、後期のものはほとんど読んでいない。)
「ヒステリーの病因について」(1896)の註(1924年に書き込んだもの)には、「私は当時まだ、現実を過大評価し、空想を過小評価する考えから自分を切り離していなかった」とある。その1924年のフロイトが「空想」の適正な評価を記した文典を探しているのだが、なかなかみつからない。(鈴木晶先生に教えてもらう方が早いんだけど、たまには身銭を切って勉強もしないとね)
しかし、私の経験では、こういう時には往々にして鈴木先生も「フロイトのちょうどその箇所」をなにかのはずみで読み返したりしているものである。

何年か前に、英文のW部先生から、レヴィナスの英語訳の数行を示されて、「これ、出典分かりますか?」と訊かれたことがあった。
何と、それはその前の夜に私が読んでいた箇所だったのである。
私は言下に、それはレヴィナスのしかじかの書物の何頁あたりにある文言です、ときっぱりお答えした。
そのとき、日頃ものに動じないW部先生が、「おおおお」と感動されたのを記憶している。
「一見遊んでばかりいるように見えるウチダ先生だが、さすがに本業のレヴィナス研究になると、数十冊の著作の何処に何が書いてあるのか掌を指すように熟知しているのだ・・・」という激しい勘違いをW部先生がしつつあることをウチダは知りつつ、「ふふふ」と笑ってその誤解を誤解のままに放置したのである。

しかし、これは実は偶然ではない。
かのユング先生のおっしゃっておられる「シンクロニシティ」というものなのである。

いまだって私が甲野善紀/名越康文/カルメン・マキの鼎談『スプリット』を読んで、なるほど甲野先生は「ひよこがギュー」がトラウマとなって畜産の道を棄てられたのであるかと納得していたら当の甲野先生から電話がかかってきた。
ご用は、明晩の名越先生との鼎談の打ち合わせである。
これをしてシンクロニシティと言わずに・・・
この例ではかえって信憑性を失うかもしれないので、いまの話は忘れて頂いきたい。

しかし、シンクロニシティというか偶然の一致というか思いもかけない「え、どうして!」ということはたしかにある。
おとといの夜は「あー、ひまだなー」と思って適当にTVをつけたら見逃してなるかの『ガチンコ・ファイトクラブ』の最終回だったし、昨日の夜は「能の足捌きってなんだろなー」と悩みながらTVをつけたら野村萬斎さんがたっぷり1時間もそれ関係の話をしてくれて、最後に「三番叟」まで見せてくれた。その萬斎さんの足の運びをイメージして今朝のお稽古でくるくる舞ってみたら、下川先生に「おや、だいぶよくなったね、歩き方は」とほめてもらった。
どうもいくら列挙してもなかなかユング先生の挙げるほどに説得力のある事例が思いつかない。

とにかく、時間というのは別に過去から未来にむけて流れているものではなくて、あちこちで入り組んで、行ったり来たりしているのである。
私はそう信じている。
何言ってんだか、という人に私は問いたい。

じゃ、時間が始まる「前」って何があったの?
時間が終わった「あと」ってどうなるの?