2月19日

2002-02-19 mardi

一日のうちにものすごい勢いで、バルトとレヴィ=ストロースとラカンについての解説文40枚を書いて、『いきなり始める構造主義』(仮題)を脱稿。
一度しゃべったネタとは言いながら、よくもまあこれだけ書くなあ。
さすがにラカンのところではもう息切れがしてきて、ほとんど引用はなし。
ラカンは、一行引用すると解説が一頁必要だから。
ほかの思想家たちの場合は、うまい引用箇所を探し当てれば、それで話がぴしっと決まるのだが、ラカンだと、数行の引用では「なぞなぞ」を読まされているみたいな気分になる。
困ったお人である。
今回分かったのは、ラカンがコジェーヴ経由でレヴィナスとけっこう似たスタンスを採用した人だいうこと。
「確信犯的なおとな」というのか、「父」というのがどういう機能であるかを承知の上で、わざと「父」を演じて見せた人、というのか。
これまでずいぶんラカンの悪口を書いてきたが、「なんだかずいぶんと人知れぬご苦労された人だった」ということが分かった。

今回のもう一つの発見は、構造主義者の主著の邦訳にかなり問題がある、ということ。
例えばフーコー。
おお、ここが「キモ」だな、というので引用したところがひどく分かりにくい。
まあ、誤訳についてひとの揚げ足を取る資格はないウチダであるが、(なにしろ、一行飛ばしたこともあるし、「とんぼ返り」(salto mortale) を「有限性の舞踏」と訳したことだってあるんだから)これはどうか、というのを一つ取り上げる。
『監獄の誕生』の中の、「王の二つの身体」をめぐる部分である。
まず原文から

A l'autre pole, on pourrait imaginer de placer le corps du condamne; il a lui aussi statut juridique; il suscite son ceremonial et il appelle tout un >discours theorique, non point de pour fonder le "plus du pouvoir" qui affectait la personne du souverain, mais pour coder le "moin du pouvoir" dont sont marques ceux qu'on soumet a une punition. (Surveiller et punir, p.33)(アクサンは省略)

たしかに一読したくらいでは意味が分からないこの文、田村さんの訳ではこうだ。

「その反対の極に、死刑囚の身体を置いてみようと考えたらどうだろう、その身体もやはり法律上の地位を持っている、それは儀式を営ませ、理論上の言説を生み出させる、がその目的は、君主の人格に割り振られていた『最大限の権力』に根拠を与えるためではなく、処罰に服する人々が押される刻印たる『最小限の権力』を記号体系化するためである。」

うーん、むずかしいね。
ウチダの訳はこうだ。

「この対極に死刑囚の身体を位置づけてみることができるかも知れない。この身体もまた一つの法制的身分を有していて、固有の儀礼を持ち、ある種の理論的言説を要求する。ただし、こんどの儀礼や言説は、君主に付ける『プラスの権力記号』を根拠づけるためのものではなく、処罰を受ける罪人に『マイナスの権力記号』を刻印するためのものである。」

文脈からして、「国王」と「大逆罪の死刑囚」は絶対値は同じだけれど、正逆反対、という話だから、affecter は「割り振る」じゃなくて「数字にプラスまたはマイナスの符号をつける」という数学用語だろうし、coder も「記号体系化する」より「符号化する」の方が適切だろう。

私が困るなあと思ったのは、実は邦訳をむかし読んだときにこの「最大限の権力」と「最小限の権力」というところにごりごり赤線をひっぱって、「おお、なんだか意味わかんないけど、かっこいいなあ。さっすがフーコーゃ」と決めてかかっていたからである。
そして、今回、この赤線箇所をぜひ「決めのフレーズ」に使おうと思って原文に当たったら、le plus/le moins は「最大/最小」ではなく、ただの「プラス符号/マイナス符号」のことだったので「あれー」とがっかりしちゃったのである。
きっとこれまでフランス語に当たらないで、「フーコー曰く、『最大限の権力』とは・・・」みたいなことを書いた学者さんがけっこういるんだろうなあと思ったら、その人たちが気の毒になったのである。

誤訳が発生する理由はいくつかあるが、そのうちのひとつは相手を「怖れ」すぎて、「何いってんだかわかんない」ところを、「ああ、これはすごく深遠なことを言っているにちがいない」と思い込んでしまって、むずかしく訳してしまう、という「畏怖ゆえの勘違い」がある。(私の「有限性の舞踏」などがその恥ずべき典型だ。)
『こんにゃく問答』みたいなものである。
そのむかし、わが敬愛する故・沢崎浩平先生がバルトの翻訳で、draguer の訳語に窮して「浚渫する」と訳したら、蓮實重彦に「上品なサワザキ氏は draguer をあえて『浚渫する』とあいまいに訳しておられるが、やはりこれはずばり『ナンパする』でよろしいのでは」と書評で書かれたといって苦笑しておられたことを思い出した。
そのころ助手だった大平具彦氏がそれを聞いて、「フランスに留学したとき、まっさきに覚えた動詞ですけどね、ふふふ」と笑っていた顔も懐かしい。

爾来私は「よくわからないところ」については、「もしかすると、すんごく簡単な話をしているじゃないかなと疑う」というチェックを翻訳にさいして必ず行うことにしている。
橋本治先生の「桃尻語訳」も、基本的には同じ「疑い」に動機づけられた作業ではないだろうか。
ウチダの野望はいずれ「桃尻語訳・エクリ」を刊行することである。
たとえば、「〈私〉の機能を形成するものとしての鏡像段階」の一文を現行の佐々木孝次訳で読むと、

「主体が幻影のなかでその能力を先取りするのは身体の全体的形態によってなのだが、この形態はゲシュタルトとしてのみ、すなわち外在性としてのみ主体に与えられるものであって・・・」

とある箇所は、「桃尻語訳」だと

「だからさー、子どもが鏡みてっとさー、『自分はもう大人よ、人間なのよっ』ていう思い込みがさ、かんじんの『自分』より先に来ちゃうわけよ。鏡に身体がまるっと映ってっから。できあいの『かたち』、つうか要するに自分の外にあるものをとおして、身体が見えちゃうからね・・・」

これで全編通すのは、たしかにちょっとたいへんそうだけど、ラカンの読者を女子高校生にまで拡大しようと望むのであれば(誰が?)やりがいのある仕事ではある。
(まあ、どの出版社からもオッファーはないであろうが)

今回の『いきなりはじめる構造主義』は橋本先生の「桃尻語訳」には及びもつかないが、とりあえず「ウチダ語訳」にはなっている。
もうすぐ出るから、買って下さいね。