2月19日

2002-02-19 mardi

終日ごりごりと原稿を書く。
文春新書の「いきなり始める構造主義」(仮題)の第三章・フーコーのところを書いているうちにどんどん長くなってしまって(いつものことですけど)、収拾がつかなくなってしまった。
長くなるには訳がある。
私はむずかしい思想を祖述するときには、必ず「たとえ話」や「ぴったりの実例」というものを出してきて、読者のみなさまに「ああ、そのことね。ふんふん。なら、分かるわ」というふうにご納得頂く、という手順を踏むことにしている。(ユーザー・フレンドリーはウチダ家の家風である)
そして、ひさしく「だっからさー。たとえば、こういうことって、あんじゃんか」的な事例の列挙をもって「思想のパラフレーズ」と称してきたのである。
ところが、その結果、ついに私はある重大な真理を発見したのである。
それは、「すぐれた思想からはほとんど無限に『たとえ話』が引き出せる」ということである。
逆に言えば、「それってさ、要するに、あのことよ」というときの「あのこと」が思いつかない思想というのは、たいていの場合、スカな思想だ、ということである。
今回はフーコーの「あのこと」をあれこれと列挙しているうちに、最終的にはフーコーが「権力」と名指しているものについての批判は、いま世に流通しているすべての「フーコー本」に当てはまるという、実に分かりやすい「あのこと」に思い至ったのである。
あ、そうか。
だって、そうだよね。
フーコーが「権力」と名づけたのは、狂気であれ性的逸脱であれ、それを「排除」したり「抑圧」したりする実体的な制度のことではなく、あらゆる人間的事象を「一つ一つを、特定の場所で特徴づけ、そこに確固たるものとして存在させること」、つまり分類学的な知の欲望のことだったんだから。
そのフーコーの著作が全世界の社会科学・人文科学の大学院生の必読文献に指定されている。
院生たちはみんなフーコーを「勉強」する。
彼らは、フーコーの用語を使い、フーコーのフレームワークに準拠して、さまざまな人間的事象を分類し、命名し、カタログ化するお仕事に孜孜として励んでいる。
そして、紀要論文に「周知のように、権力=知とは人間の身体と精神を標準化させようとする不可視の装置の謂である」なんてこりこり書いてるのである。
「権力的に標準化されている」のは自分の硬直した身体と精神の方ではないか、という疑問は彼らの頭には決して浮かばない。(バカだから)
フーコーはべつに権力論を書いているわけではない。
「私はバカが嫌いだ」ということ「だけ」を延々と書いているのである。(よく飽きないと思うくらい、延々と。)
自分の本を読みながら赤線引いたり、ノート取ったり、「フーコー曰く」なんて得々と語るやつはみんな「バカだ」と書いているのである。(書いてないけど)
まったく底意地の悪いオヤジである。
だから、フーコーは「勉強する」ものではないと、ウチダは思う。
寝ころんで読みながら「このオヤジ、ほんと性格わりーなー」とゲラゲラ笑う、というのが正しいフーコーの読み方であると思う。
そう言ってるウチダ自身は机に向かって、赤線引きながらフーコーを読み、「フーコー曰く」と書いては原稿料を稼いでいる。
ウチダもワルモノではあるが、あまり賢くはないことがここから知れるのである。