2月17日

2002-02-17 dimanche

久しぶりに何の用もない日曜日。
用がないというのは制度的な用事ということであって、やらなければならない用事は山のようにある。

晶文社から『〈おじさん〉的思考』(仮題)の初校ゲラが届く。
一気に読む。
おおお、なんて面白いんだ。
自分が書いたものを読んで「ほお」とか「ああ」と言うのは私の悪癖であるが、それにしても面白い。
私だったら絶対買う。
だって、私が言いたいことが私の生理にぴったりの文体で書いてあるんだもん。(これ、前にも書いたな)
しかし、つまらないところも散見される。
私ほど「ウチダの書き物」に対して好意的な読者が読んで「つまらない」というのは、相当に「つまらない」ということである。
さっそくそこを全面削除する。
削除すると頁数が減るので、書き足す。
ばりばり書き足して、頁数を合わせる。
夕食(ダイエット中だからいつものとおり「厚揚げとコンニャク」)を食べながら、もう一度読み返す。
二度読んでも面白い。
「おお、このあとどうやってこのデタラメ話を着地させるんだ?」とどきどきしながら読む。(さっき読んだばかりなのに)
まったく幸福な人間である。
自分の書いた本を自分で読んでわくわくできるんだから。
しかし、これほど面白い本を読んだのは小田嶋隆の『仏の顔もサンドバッグ』以来である。

自画自賛のあいまを縫って『ミーツ』の五月号の原稿を書く。
「仕事について」という論題が決まっている。
編集長の江さんからは「若い連中に一つばーんと説教かまして下さい」と言われているので、そのご趣旨に添わないといけない。
「ばーん」ね。
仕事の本質は「パス」することだ、という最近の持論を展開する。
「パス」とは何かということを書くにはいろいろなアプローチがある。
レヴィナス老師の場合だと師弟論になる。フロイト=ラカンだと転移論になる。もちろんサッカー論にもなる。
でも今回は岩井克人の『貨幣論』と三浦雅士の「クロマニヨン人論」をネタにする。

「貨幣の本質は、それが貨幣であるということだ」という岩井の貨幣論は実に爽快である。
「クロマニヨン人の本質は『交易が好き』ということだ」という三浦の洞見には身が震える。

まったく世の中には「頭のいい人」がいるものである。

私は「頭のいい人」には無条件に敬意を抱き、「バカ」には無条件で敵意を抱くという度し難い「主知主義者」である。
「頭のよしあし」を私ほど無批判に査定の基準にする人間を私はほかに知らない。
他の人たちは「性格がよい」とか「やさしい」とか「思いやりがある」とか「想像力が豊か」とかいろいろな基準を設けて多面的に人物評価をしているが、私はそのようなことをまるでしない。
私に言わせれば、そういうのは全部「頭がいい」という本性のそのつどの表出にすぎないからである。
「頭がいい」人は、社会関係の中でどういうポジションを取ればいいかは熟知しているはずである。
自分の欲望をすみやかにかつ全面的に実現するためには、回りの人から「性格がよくて、やさしくて、思いやりがあって、想像力が豊か・・・」と思われていることはきわめて有用である。だから「頭のいい人」は必ずや「人間的にもよい人」(に見えるはず)である。
ところが、私自身は「性格が悪く」「イヂワルで」「思いやりに欠け」「想像力がない」。
だから私自身が設定する基準によれば、ウチダは「頭が悪い」。
では、「頭の悪い」ウチダがなぜ、他人については、「あいつはバカだ」などと高飛車に論評できるのであろうか。
ここには意外な秘密が隠されている。
それは「ウチダの頭」は「頭が悪い」のだが、「ウチダの身体」は「頭がよい」からなのである。
「ウチダの身体」は「ウチダの頭」よりはるかに賢い。
恐ろしいほど賢い。
これは自信をもって断言できる。
頭が理解できないことでも身体が理解できる、というの私の特技である。
だからウチダ本人は「バカ」のくせにウチダがつねに自信をもって「あいつはバカだ」と断言することができるのは、私が他者の知性をつねに「身体」で判断しているからである。
そいつのそばにゆくと、私の身体が「ぴっ、ぴっ。こいつバカですよ、ぴっ」と信号を発するのである。(ほんとである。)
私の「頭」はただそれに耳を傾けるだけでよい。
半世紀生きてきて、身体によるバカ診断が誤ったことはただの一度もない。
私の「頭」が、「この人は立派な人だ。尊敬に値する人だ」といくら主張しても、私の「身体」は「ぴっ、ぴっ。こいつバカだよ、ぴっ」と信号を発するのである。
そうはいっても、私もいちおうは社会人であるから、とりあえずは「頭」に従うことが多い。
だけど「身体」は執拗に文句を言い立てる。
その人のそばにゆくと鳥肌が立ち、じんましんが出て、夢の中で殴り殺したりする。
どうして、あんな「いい人」を夢の中で殺したりするのだろう、とわが無意識のあまりの野獣性に胸が痛むこともしばしばなのだが、これが驚いたことに、「頭」が保証したはずの「いい人」がやっぱり「致死的なバカ」であることがやがて現実の局面であらわに実証されるのである。
身体の方が正しく人物を見抜いていたのである。
そういうことを私はこれまでに何度も繰り返してきた。
「私の身体は頭がいい」というのは橋本治先生の至言である。
私はこの一言で、橋本先生が20世紀を代表する世界思想家であることの証左として十分であると思う。

何だか訳の分からない話になってしまったが、話を戻すと、『ミーツ』の原稿を書いた、という話であった。
例によって1時間ほどでばりばりと書き上げる。
こういうものは、何日もかけて推敲すればよいというものではない。
一気呵成に「ばーん」といかないと、自分自身の思考の壁をブレークスルーできない。
編集者からは「これこれこういう感じで」というアウトラインのサジェッションがあるのだが、先方が「書いて欲しいこと」を書こうとすると、いまひとつ勢いがつかない。
「こんなことを書かれると困るだろうな・・・」と先方が困惑するであろうものを書きだすと、あら不思議、どんどん書ける。
原稿を読んで「納得の笑顔」をしている江さんよりも、さくら・ももこ描くところの「顔の縦線」が無数に走った江さんの顔を想像する方が筆のすべりがよろしい。
ウチダは心底性格が悪いということである。

冗談抜きで、ウチダはほんとうに「邪悪」な人間である。
「頭」の方はそれほど邪悪ではなく、どちらかというと「いい人」に分類して頂いても構わないほどである。(「頭が悪い」のが唯一の欠点だが)。
しかし、ウチダの「身体」は本人も思わず目をそむけたくなるほどに「邪悪」である。
人を傷つけ、困らせ、損ない、罵倒し、苦しめ、哄笑している自分の姿を想像すると、アドレナリンが「ばーん」と分泌される。
頬が紅潮し、肌にはりが出て、肩の力が抜け、呼吸が深くなり、お腹が空いてくる。
この体質をなんとかしたいのだが、どうにもならない。
いくら偉大なお師匠さまたちに就いて修業を積んできても、「根がワルモノ」という体質は一朝一夕では治らない。
自分が「ワルモノ」である、ということをこうやって公言して、周辺の被害を未然に防止できるようになったのだけがせめてもの修業の甲斐である。
日本沈没の日までに、ウチダが「よい人」とよばれるようになる可能性はあるのだろうか。
刮目して待て。