2月13日

2002-02-13 mercredi

8日のセクハラ講演のとき、講演後、「何かご意見は」と会場に振られたときに、発言する気はなかったのだが、手が勝手にあがってしまった。(こういうときの身体反応は頭より速い。)
そのときは時間の制約もあったし、考え考え、ながながと持説を展開するような場でもないので、セクハラ概念の拡大解釈は大学教育にとって危険なことであるということを断片的に言って終わってしまった。
ここで改めてじっくりと所見を述べさせて頂くことにする。(すごく長い話なので、エロスと師弟関係と知と欲望の関係についての話題に興味がない人はここで止めて、どこかよそに遊びに行って下さい。では、さようなら)

大学という場で、教師が学生に対して権力的な地位にあること、その権力は教師が院生学生にとってある種の「欲望の対象」であることを基盤として成立していること、これは先日の講師の方(甲南女子大の牟田和恵先生)もただしく指摘していた。
私もそれにはまったく異存がない。
大学に限らず、「教えの場・学びの場」は必然的に権力の場でもある。
ただしここでいう「権力」というのは、成績査定や単位認定や入試の合否判定といった学生院生の身分についての制度的な権限だけを指しているのではない。
教師は制度的な権力が与えられている「から」、学生たちはそれに隷属しているという言い方は事態を正確には言い当てていない。
より厳密には、「学生たちが教育されることを望んでいるという事実に教師の権力は基礎づけられている」というのが学校における権力の「起源」なのである。
教師に成績査定や単位認定の権利が与えられているのは、ほんらい教師が「知ある者」の座に位置するものとみなされているからであって、その逆ではない。
間違えないでほしいが、私はあくまで「起源」のことを言ってるのであって、現実に「制度的権限」以外にいかなる権威にも支えられていない無能な教師がいることを否定しているわけではない。(できるはずがない)
しかし、あくまで学校の「本旨」に即して語るならば、学生たちは、「知ある者」から「学ぶに値する知恵」を求めて大学に来るのであって、「無知だが権威のあるひと」に隷属することを求めて大学に来るわけではない。
もし、教師の本質を構成するのは権力であるというのがほんとうであれば、制度的に成績査定権や単位認定権を賦与されれば、「誰でも」教師として働けることになるし、大学はそれで十分機能することになる。
しかし、現実にはそうなっていない。
私たちは同僚の人事を行うときに、その人が「知ある者」を求める学生のニーズに応えうる人かどうかを基準に人選を行っているが、そのときの基準は、その人が「ビジネスマインドがある」とか「板書がきれい」とか「声がとおる」とかいうことではない。
その人自身が「知ある者を求める」人であったかどうか、いまも求め続けているのかどうか、である。
「知ある者」と学術的な価値に対する畏敬の念に領されていること、それが大学の教師になるためのぎりぎりの最低条件である。
すべての教師のうちには「知ある者」への欲望は骨の髄までしみこんでいる。
だから、どれほどグータラでバカな教師であっても、自分が「知的な人間」に見られたいという欲望から自由になることはできないのである。そして、そのような欲望に身を灼かれているかぎり、その人には教師としての最低条件は備わっている、と私は判断する。
学校というところは、すべての制度的虚飾を削ぎ落とせば、「知ある者」に対する欲望を持つ者(=教師)の欲望が、「知ある者」に対する欲望をもつ者(=学生)の欲望の対象となる、という「欲望の欲望」構造に帰着する。
「欲望の欲望」というのは『精神現象学』のヘーゲルの言葉であり、「人間性」についてのおそらく最終的な定義である。
コジェーヴはそれをこう解釈する。

「人間的欲望は他者の欲望に向かわねばならない。(...) 例えば、男女間の関係において、欲望は相互に相手の肉体ではなく、相手の欲望を望むのでないならば、また相手の欲望を欲望としてとらえ、この欲望を『占有』し、『同化』したいと望むのでないならば、すなわち相互に『欲せられ』、『愛され』ること、或いはまた自己の人間的な価値、個人としての実在性において『承認される』ことを望むのではないならば、その欲望は人間的ではない。」

人間の欲望が照準するのは、モノやヒトではなく、「他者の欲望」である。
私たちは「他者そのもの」を占有したり、「他者と一体化」することを望んでいるわけではない。(少しは望んでいるが、それはヘーゲルに言わせれば「動物的欲望」の準位に存するものであって、人間は動物的欲望の充足「だけ」では決して充足されることがない。)
そうではなく、「他者の欲望の対象となること」「他者に欲され、愛され、承認されること」を欲望するのが人間的欲望なのである。
この「他者の欲望を欲望する」構造がもっともあらわになるのはコジェーヴの引いているように性愛の場である。
レヴィナス老師によれば、官能において私たちが照準しているのは他者の肉体ではなく、他者の官能である。そして、他者の官能はそれを照準している私の官能によって賦活されている。つまり性愛の局面において、求め合っている両者の官能はそれぞれが相互に賦活し合い、承認し合っており、ウロボロスの蛇のように、いかなる実体的な基礎をも要さない純粋な「循環性」の中に自閉している。
学びの場もまたそれが「他者の欲望についての欲望」に賦活されて始めて起動するであるという点において、つまり「人間的な場」であるという点において、官能の経験と深いところで通じている
学生たちが大学に来るのは、そこにゆけば「自分に欠けているもの」を満たしてくれる「知ある者」に出会えるだろうという期待を(満たされるかどうかは別として)持っているからだ。
そして、現実にはそうでなくても、教師が「知的であること」(少なくとも「知的に見えること」)に命がけであるような特異な性向を刻印された社会的存在者である限り、教師は「知者であろうと熱望するもの」たちの欲望の対象となりうる。
なぜなら学生たちの欲望が照準するのは「教師そのひと」ではなく「教師が欲望しているもの」だからである。
経験的にはよく知られていることだが、学生たちの欲望は「すべてを知っている教師」に対してでも、「あまりにも少なくしか知らないことを恥じている教師」に対してもひとしく昂進する。
だから、極論すれば、大学教師であるためには「バカであること」はほとんど障害にならない。
「自分がバカである」ことに鋭い痛みと欠落感を覚えているだけで十分なのだ。
なぜなら、そのような教師は、「他者の蔵する知への欲望」の激しさにおいて、「『他者の蔵する知への欲望』を欲望する」学生に強い学びの動機づけを与えることになるからである。
学ぶものの欲望の強度は、教師における欲望の強度に比例する。
学びの場を駆動しているのは、「知そのもの」ではなく「知への愛」である。

知とエロスの本質的な親和について語ったのはヘーゲルばかりではない。古代にまで遡っても、私たちはいま私が語ったのとほとんど同じ言葉を見出すことができる。
およそ欲求する者は、「自分の手もとにないもの、げんにないもの、自分の持っていないもの、現在の自分とは違ったもの、自分に欠けているもの」を欲求する。
そのような欲求のことを古代の文典は「エロス」と呼んだ。

「知はもっとも美しいものの一つであり、美しいものへの欲求をエロスと言います。ですからエロスは必然的に知を愛する者であり、知を愛する者であるがゆえに、必然的に知ある者と無知なる者との中間にある者なのです。」

そうソクラテスに教えたのは巫女ディオティマである。
学びの場とは「知ある者と無知なる者の中間にあるもの」である。「中間性そのもの」を本質規定とする場である。だから、ディオティマを信じるならば、「学びの場」とは必ずや「エロスの場」となる。
学校では教師は構造的に欲望の対象になる。
「エロスの場」であるということが学校を学校たらしめているからだ。
だから学校でセクハラ事件が起こるのは、そこが「エロティックな場であるから」からではない。そうではなくて、人々が学校が本質的にエロティックな場であるということに「気づいていない」ことに起因するのである。
「知ある者」という機能的立場ゆえに、教師は学生にとって必然的にエロス的欲望の対象になる。その欲望を駆動力としてはじめて教育は成立する。
いわば、私たち教師は毎日「エロティックな火薬」の中で仕事をしている花火師のようなものである。その引火性の強い「火薬」を適切に統御しながら、小爆発を繰り返させることで、学生たちはおのれ自身の「無知の殻」を爆砕して、一歩ずつ進んで行く。
セクハラ教師というのは、自分が「火薬」のど真中で仕事をしていることを「知らない」人間のことである。学校を非エロス的な場であると、(あるいは「あるべきだ」と)思い込んでいる無知な教師たちは、そこに「火薬」が充満していることを知らないので、平然と「火薬」の中で煙草を吸い、焚き火をする。そして、学生といっしょに吹き飛ばされてしまうのである。
セクハラ教師に欠けているのは自制心ではなく、知性である。
勉強が足りなくて(おそらく『饗宴』も『精神現象学』も『全体性と無限』も『精神分析入門』もまじめに読んだことがなく)教育の本質がエロティックなものだということを「知らない」教師のことである。(だからそれは男性教員に限られるわけではない。)
もちろん、そのような知性を欠いた教師を罰することは理にかなったことである。
しかし、その罰を基礎づけるのは、「学びの場とは本質的にエロティックなものであることをよくわきまえてプロの仕事をしなさい」という実践的訓戒であって、「学びの場はエロティックなものであってはならない」という禁則ではない。
セクハラについての議論で私が誤っていると思うのは、セクハラの現実を憂う言説が「学びの場はエロティックなものであるはずがないし、あってはならない」という政治的判断に短絡することである。
「師弟関係にエロス的なものが含まれているから、セクハラが生じるのだ」という推論は、「師弟関係がエロス的なものであるはずがないから、学生が自分に示す欲望は純粋に私的な欲望なのだ」と思い込むセクハラ教師の推論と、順逆を逆転しただけで、実は同型的な思考なのである。
師弟間には学術情報の授受以外の関係があるはずもないし、あるべきでもない思い込んでいる教師だけが、学生の欲望を読み違える。

師弟関係とは本質的にエロティックなものであるということを熟知していたソクラテスは、『饗宴』において、弟子の欲望を正しく読み当てるとはどういうことかのお手本を示してくれている。
『饗宴』の終盤、アガトンの祝宴への泥酔したアルキビアデスの乱入によって、清談の場は、師ソクラテスの愛を争う二人の若者による三角関係劇と化す。その一歩誤ればぐちゃぐちゃの修羅場のただなかで、ソクラテスはふたりの若い弟子たちが自分に向けるエロス的欲望をみごとに制御して、彼らをたくみに成熟の回路へと導く。
ソクラテスがこの導きに成功するのは、若者たちが欲望しているのが、「ソクラテスその人」ではなく、「ソクラテスが蔵していると想定されている知」、より厳密には「ソクラテスが欲望している知」、つまり「ソクラテス自身が蔵していない知」にたいする欲望であるということを熟知していたからである。
他者の欲望が照準している先が、「私自身」や「私の蔵する知」ではなく、「私が所有しておらず、私が欲望しているもの」-「私の欲望が照準している他者の欲望」であることを知っているものだけが自分に向けられた欲望の統御に成功することができる。
学生の欲望が「私自身」や「私が所有しているもの」に向かっていると勘違いする教師だけがおのれ自身と学生の欲望のカオスの中に巻き込まれてしまうのである。
セクハラはそのあらわれ方の一つにすぎない。
構造的に賦与された知的威信をおのれ自身への人格的尊敬と勘違いして、学生や弟子にえばりちらすアカハラ教師もまた、欲望を読み違えているという点では、セクハラ教師とその愚鈍さにおいて選ぶところはないのである。
学びの場におけるエロティックな欲望の統御の方法とは、「研究室のドアをあけておく」とか「学生とコンフィデンシャルな話をしない」とかいう下世話なレヴェルの問題ではなく、欲望の構造について「何を知っているか」という徹底的に知的な水準において議されるべき問題である。そのことを当の大学人たちが理解しない限り、セクハラ問題について何万時間議論しても問題は決して本質的な解決に至ることはないだろう。

しかし、誤解を防ぐためにもうひとこと言い添えておく。
師弟関係はエロティックな関係である、と私は書いた。
しかし、それは本質的なところで官能の関係とまったく異質な構造を持っている。
その構造の違いさえただしく踏まえていれば、師弟関係を領するエロスはゆたかな教育的資源となるし、その構造をしらなければ、師弟関係のエロスはいまわしいものとして抑圧されるだけだ。
コジェーヴとレヴィナスの欲望論はほとんど同じ言葉遣いで官能について語っている。それは「私の官能は他者の官能をめざし」「他者の官能は私の官能をめざす」という仕方で、それぞれを基礎づけあっている、ということである。
欲望は二者間を循環している。
たしかにこの比喩を用いると「欲望を喚起するのは実体的ななにものかではない」ということはよく分かるし、主体の根拠が「主体の内部」にはない、私は私自身を基礎づけることができない、という事況も見て取れるが、「他者の外部」への回路は保証されていない。
エロスの比喩だけでは私とあなたのあいだの「非相称性」という観点が抜け落ちてしまうからである。
エロス的関係において、「他者の外部」への回路を担保し、二者間の永遠の「ピンポン」を終結させるのは、エロス的な欲望のうちに向き合っている二人のあいだに「有責性の水位差」があるという事実である。(もちろんここでいう「有責性」とは、「教師は本来的に権力的な存在なのだから、それを恥じ入りなさい」というようなイリガライ的なレヴェルの話ではない。)
「私」はつねに「あなた」より有責である、という倫理性が主体の主体性を基礎づける、というのがレヴィナスの理説である。
そのような「有責性の先取権の主張」はたんに主体性を基礎づけるだけでなく、「私」と「あなた」のあいだに社会性(「他者たち」との回路)を導き入れるために必須のものだ。
この「私はあなたより有責である」ということを多くのレヴィナスの読者は法制的な含意に即して理解して、「おのれの有罪性を恥じる」とか「いやなこと、苦しいことを引き受ける」というような意味に解するが、私はそうは解さない。
有責性とは、何よりも「あなたが私に贈るに先んじて、私はあなたに『贈り物』をする」ということである。
師弟関係における「贈り物」とは何だろう。
ふつうの人は、それは「学術情報」や「学術的スキル」ということだと信じているのだろうが、そのような「かたちあるもの」が学びと教えの場に賭けられている唯一のものだと信じるひとには師弟関係というのは永遠に理解できないだろう。
師が弟子に贈るのは「師の師へ対する欲望」である。
師が弟子に先んじているのは、師が「師となるより以前に」は誰かの弟子であったという事実である。
もちろん経験的な師をもたないまま師になりえたひともいる。だから、ここでは師という概念をもう少し拡大して、「その人の蔵する知に欲望を感じたひと」というより包括的なカテゴリーと定義する。(どれほど独学的に自己形成した教師でも、かつて一度として他者の蔵する知に対して欲望を感じなかったということはありえないからだ。)
私は合気道の門人たちに、繰り返し「私を見ずに、私が見ているものを見なさい」と教えている。
私なんかを模範にしていたってまるで修業にはならない。
しかし、私が仰ぎ見、私が欲望しているものは、見る価値、欲望する価値のあるものである。それは多田先生が「見ているもの」であり、多田先生を通じて植芝先生が「見ていたもの」であり、そして植芝先生を通じて出口王仁三郎師や武田惣角師が「見ていた」ものであり・・・
師弟関係で継承されるものは実定的なものではなく、師を仰ぎ見るときの首の「仰角」である。これは師弟のあいだにどれほどの知識や情報量の差異があろうとも、変わることがない。

師弟関係における「外部への回路」は、「師の師への欲望」を「パスする」ことによって担保される。(「パス」という言葉はラカン派においては教育分析をつうじての「転移」を指する。もちろんサッカーやラグビーの「パス」も本質的に同じ機能を果たしている。)
師弟関係において「欲望のパス」をしない人間-つまり弟子の欲望を「私自身へのエロス的欲望」だと勘違いする人間-は、ラグビーにおいてボールにしがみついて、試合が終わってもまだボールを離さないでいるプレイヤーのような存在である。彼は自分の仕事が「ボールを所有すること」ではなく、「ボールをパスすること」であり、「ボールそのもの」には何の価値もないということを知らない。
「師の師への欲望」として「顔の彼方」へとパスされてゆくはずの欲望が、二者間で循環することの息苦しさに気づかない師弟たちだけが、出口のない官能的なエロス的な関係のなかで息を詰まらせて行くのである。
真の師弟関係には必ず外部へ吹き抜ける「風の通り道」が確保されている。あらゆる欲望はその「通り道」を吹き抜けて、外へ、他者へ、未知なるものへ、終わりなく、滔々と流れて行く。
師弟関係とはなによりこの「風の通り道」を穿つことである。
この「欲望の流れ」を方向づけるのが師の仕事である。
師はまず先に「贈り物」をする。
その贈り物とは「師の師への欲望」である。
その場合の師とは、さきほども書いたように、必ずしも人格的な師である必要はない。「私が知るべることを知っていると想定される他者」は-遠い時代の異国の賢者であれ-定義上「師」の機能を果たしうる。
そして、師から「欲望の贈り物」を受け取った弟子は、それを師に返すのではなく、自分の弟子に贈る。
その永遠の「パス」によって師弟関係の「非相称性」は確保される。
『饗宴』はエロスと知とめぐる対論だが、その中で、ソクラテス以外の全員は、「私はエロスについて・・・を知っている」という仕方で語る。
ソクラテスひとりが、「私はエロスについて、ディオティマからこんなことを教わった」という「師から伝えられた言葉」を「贈り物」にして差し出す。
ほかの論者たちが「自分の知的所有物」を誇示して敬意の返礼を求めた中で、ソクラテスひとりは「師からの贈り物」をひとびとに無償で贈るのである。
ソクラテスの「師性」は、彼がその叡智をディオティマから授かり、それを次世代の若ものたちへの贈り物にしたという「パッサー」としての仕事の精密さによって基礎づけられている。
学びの場、教えの場にその本来の機能を回復させるために必要なのは、「パスするものとしての師の機能」についての平明な省察だと私は思う。
私たちの中には、「私は教育者ではなく、研究者である」と言い放つものがあり、「教師と学生は人間として対等である」と言い放つものがあり、それどころか「教育が成り立たないのは学生がバカだからだ」とさえ言うものがおり、「私には師とよべるような人間は誰もいないし、誰かに師だとも思われたくない」と背を向けるものもいる。
これらはひとしく「師とは欲望のパッサーである」という基本的定義を知らない発言である。
ある種の人格的な条件(賢明であるとか、高潔であるとか、博識であるとか・・・)を満たした個人が「師」となる、という発想そのものが間違っていることに多くの人は気づかない。
その誤解は、「私は賢明でも高潔でも博識でもないので、ひとから『先生』と呼ばれる資格がない」と謙遜する人間と、「学生が私を『先生』と呼ぶのは、私が賢明で高潔で博識であるからだ」と思い違いをする人間の双方に共有されている。
師とは、人格的な機能ではなく、欲望論的な布置のなかで、どういうポジションを占めているか、という純粋に力学的な機能なのである。

話がくどくてすまない。