『ガチンコ』について、『ミーツ』のTV批評欄の記事をとりあげたら、江さんからも編集の青山さんからもすぐにメールが来て、編集部で問題になっていると教えられた。
江さんが「シロートのウチダせんせに突っ込まれたら、あかんやないか!」と若い編集者たちに檄を飛ばしている風景が想像される。
悪いことをしてしまった。
うかつなことを書くものではない。
私は南典子さんを批判しているのではない。(「かちんと来た」というのはほんとうだけど)
他の人の目には「卑しい」ものと見えるTV番組に、どうして私(や「オーディナリーな視聴者たち」)は「わくわく」しちゃうのだろう、ということの理由を考えてみたかっただけなのである。
「TV虎の穴」は毎号楽しみに読んでいるので、これからも「オーディナリーな視聴者のいやがること」をどんどん書いて欲しいと願っている。(そういう趣旨のコラムなんだし。)
そういうえばこの日記もそうか。
深夜定期便的に甲野先生からお電話がある。
名越先生が『ためらいの倫理学』を読んで、その感想をホームページに載せているから、読んでごらんなさい、というご案内である。
あの本ももう出してから一年近くなるし、中身を書いたのはもっと前(古いのは6、7年前)だから、本についてコメントされると、なんだか卒業後何年かしてからの同窓会で高校の同級生の女の子に「あたしね、高校のころ、ウチダくんのこと、実は好きだったんだよ」と告白されたような気分である。
うれしいんだけど、ちょっと「時間差」がある。
『レヴィナスと愛の現象学』もばりばり書いていたのは去年の春休みと夏休みだから、もうずいぶん前だ。
時間がたつと、自分の本でずいぶん「距離」が出てきて、自分が書いたはずのものを読みながら、「何が言いたいんだろ、この人?」と思うことがよくある。
すると、思わず、のめり込むように読んでしまう。
その「自分自身に対する奇妙な距離感」が私はわりと好きである。
私がやたらにものを書くのは、おそらくそのせいである。
一昨日の夜「明石家電視台」で明石家さんまが、「自分の家では自分の出るTV番組ばかり観ているので、いっしょにいる女の子に嫌われる」と語っていたが、私はさんまの気持がなんとなくわかる。
『ヘルプ!』の中でジョン・レノンも書棚にずらりと自分の書いた本(全部同じ本)を並べて、それに読みふけっていたが、私はジョン・レノンの気持がなんとなくわかる。
さんまもジョンもべつに「ナルシスト」ではない。
むしろ、自分を突き放し、冷たい目で観ることのできるタイプの人間だと私は思う。
そういうタイプの精神にとって、自分自身の作品は、「自己観察のための情報源」である。
人間はどういう嘘をつくか、どうやって人を騙すか、どうやって欲望を隠すか、どうやってトラウマを言語化するか・・・人間一般についての汎通的理解を手に入れるもっとも有効な方法のひとつは、自分で書いたもの、自分でしゃべったことを距離を置いて回顧することだ。
私は私を観察するのが好きである。
ヘーゲルは『精神現象学』の冒頭に、自己意識が自我を基礎づけると書いているけれど、それは「自分の出ている番組を観ている明石家さんまが明石家さんまを基礎づけている」というのとたぶん同じことだ。
で、どうして自己意識なんていうものがあるかというと、それはヘーゲルも書いてない。
しかし、やっぱりそれが「楽しい」からでしょ。
人間がそれ以外の理由で何かに夢中になるということはないから。
(2002-01-30 00:00)