書くのはこれで二度目なので、「話がくどいぜ」と叱られそうだが、話がくどいのは年寄りの癖である。
私はもう年寄りなので、言わせていただく。
28日の朝日新聞の「天声人語」で、外務省のNGO問題に関連して、またもやカミュについての誤った言及がなされている。
さすが外務省というべきか、『これはもうカミュの世界』という言まで飛び出したそうだ。カミュといえば『異邦人』などで知られるフランスの作家で、戦後大流行した不条理の哲学の旗手だった。口走った事務次官は、そういえばその世代か。
カミュの『シジフォスの神話』を思い浮かべる。ギリシャ神話を題材にした随筆だ。最も狡猾な知恵者といわれたシジフォスが地獄に落とされ、刑罰を受ける。大石を山頂まで押し上げる刑である。その大石はもう一歩のところで必ず転げ落ちる。最初からやり直しだ。これを永遠に続けなければならない。
たとえばカミュは不条理をそのように描いた。アフガン復興会議での非政府組織(NGO)参加拒否問題をめぐるごたごたでは、確かにシジフォスのような『徒労感』におそわれる。
世界の多くのカミュ研究者が、『異邦人』における「不条理」概念の倫理性と、シジフォスの「希望」について、過去30年間語ってきたことは、あいかわらずここでも一顧だにされていない。
あいかわらず「カミュ=不条理=わけわからん」という涙がでそうなほどお粗末な図式が罷り通っている。
それが800万人の読者に「天声人語の教えてくれる日本人の常識」として伝播されてゆくさまをみると私もまた深い「徒労感」に襲われずにはいない。
カミュの「不条理」概念がどういうものかについての定義は天声人語子がひいている『シジフォスの神話』に詳しく書かれている。
決して分厚い本ではないし、翻訳も読みやすく、新潮文庫でどこでも買える。引用するなら、なぜその前に一度通読してみるくらいの手間を惜しむのだろう。読めば『シジフォスの神話』が「ギリシャ神話を題材にした随筆」ではなく、全編を「不条理」(absurde) という概念の精密な定義にあてた「哲学的試論」であることは誰にでも分かるはずだ。
「ほんとうに真剣にとりくむべき哲学的問題はただ一つしかない。それは自殺である。人生は生きるに値しないと判断すること、それは哲学の根本問題に答えることだ。それ以外のこと、世界には三つの界域があるとか、精神には九つのカテゴリーがあるとか、いや十二あるとかいうことはあだごとにすぎない。まず、答えることが必要だ。」
『シジフォスの神話』はこのフレーズから始まる。
この本は「ほんとうに真剣にとりくむべき哲学的問題」だけを扱った深い思索の書である。
カミュがこの哲学的試論(essai を天声人語子は「随筆」と訳しているが、essai は日本語でいう「随筆」ではない。「試論」とはある概念なり装置なりの有効性を「考量すること」である)で問うているのは、大戦間期の思想家たちに共有された「世界の無意義性」という所与の条件からどう脱出するかという問いである。
世界の無意義性というのは1930-40年代の独仏の青年知識人の強迫観念であった。
ハイデガーの「存在論的不安」、ヤスパースの「限界状況」、サルトルの「吐き気」、バタイユの「内的体験」、レヴィナスの「在る」、カミュの「不条理」・・・
これらは用語は異なるが、第一次世界大戦と大恐慌のなかで近代人があじわった世界を支える意味の安定的基盤-「聖なる天蓋」-の崩落経験をひとしく指示している。
『シジフォスの神話』でカミュは先行するキルケゴール、ハイデガー、ヤスパースの実存哲学を一刀両断に切り捨て、それが「世界の根源的無意義性」の覚知から出発しながら、じつにやすやすと「より上位の、より包括的で、超越的な救いの審級」にすり抜けてしまうことを言葉厳しく批判した。
彼らはたしかに「聖なる天蓋」の不在を告知する。しかし、それは単に「より包括的な天蓋」を要請するためのジェスチャーにすぎない。
カミュはそのような「天蓋再構築」の試みを「哲学的自殺」と呼んだ。
「これらの人々は自分たちが理性が崩壊した場所にいる、人間たちだけしかいない閉じられた世界にいるという不条理の経験から出発しながら、奇怪な論法によって、自分たちを押しつぶすものを神と崇め、自分たちから略奪するものののうちに希望の理由を見出そうとする。このような強いられた希望は本質的に宗教的である。」
キルケゴールの「絶望」は「真理に到達するために通り抜けられねばならぬ否定性」に他ならぬし、ヤスパースは「限界状況」を突破して「有限性を止揚する超在」に出会うし、ハイデガーは「存在忘却」から「聖なるものが出現する」本質の場所への「帰郷」を果たしてしまう。
彼らは皆「人間たちだけしかない閉じられた世界」からみごとに脱出してしまう。
カミュはその脱出を「自殺」と呼んだのである。
カミュは「救い」や「超越」や「究極的な意味」をきびしく自制する。
「人間たちだけしかいない閉じられたこの世界」においては、人間たちのあいだで意味の通じる言葉、人間たちが手に触れることの出来る価値にこだわって生きる他ない。カミュはごく平明な真理を語っているにすぎない。
たしかに、人間の知性には限界があり、私たちは自分の知性によって自分を基礎づけることができない。しかし、人間が不能であるという事実から、人間に存在の意味を「外部」からあるいは「天上」から賦与してくれる「絶対的な保証人」が存在する、ということは推論できない。
一切の天上的支援も奇跡的介入も抜きに、「人間が人間に対して約束したことは人間が守る」「人間が人間に対して犯した罪は人間が償う」というこれ以上は譲れない倫理性のうち、カミュは人間性の基礎づけの可能性を見出そうとしたのである。
「ひとは自分より上位にある存在に訴求することなしに生きることが可能か、それだけが私の関心事である。」
カミュは要するに自分のことは自分でけじめをつけ、神であれ歴史であれ、他人には「下駄を預けない」ような生き方をしましょう、と言っているのである。
このカミュのクリアカットな思考のどこにも「野上事務次官」や天声人語子が含意させようとしているような「なにがなんだかわからなくて、徒労感にさいなまれる」というようなべとついた情緒性や思考停止は存在しない。
この事務次官は自分の手で人間たちの世界での条理をわざわざごちゃごちゃに混乱させておいて、それによってある超越的審級(鈴木宗男の政治生命? 外務省のメンツ? おのれ一身の保身?)を救済しようとしているようにしか私には見えない。
これは「哲学的自殺」というどころか、単なる「社会的自殺」である。
自分の責任を他人に押しつけ、下駄を脱ぎ捨てて逃げ出すような人物に、私は断じてカミュの名を口にしてもらいたくない。
山頂に岩を押し上げるシジフォスは人間的尺度を超えた「目的」というものを信じない人間の比喩である。
かりに、その旅程がどこに至りつかないものであっても、いま岩を押し上げている腕のきしみとじりじりと押し上がる岩の動きは「間違いない、てごたえのあるリアリティ」であり、カミュは自分はそれしか信じない、と言っているのである。
「主なきこの世界、それはシジフォスにとって不毛なものでも無価値なものでもない。この岩の砂礫の一粒一粒が、暗闇の中で岩と岩がきしみあって放つ金属の火花のひとつひとつが、それだけでひとつの世界をかたちづくっているのだ。山頂へ向かう戦いそれ自体が人間の心を豊かに満たしている。幸福なシジフォスの姿を思い浮かべなければならない。」
シジフォスは徒労感ともっとも無縁な存在である。シジフォスは現実とがっぷりと取り組み、いまここにある現実以外のほかの場所に「言い訳」を探さない。
その努力がどのような価値を地上にもたらしきたすのか、シジフォスは知らない。人間の壮絶な努力に対して、いかなる報償も約束されていないこと、その没論理性をカミュは「不条理」と名づけたのである。それは明晰さへの終わりない知的努力を賦活するための言葉であって、「なにがなんだかわかんない」というようなふざけた思考停止の呼び名では断じてない。
誰が読んでも『シジフォスの神話』にはそう書いてある。
それ以外の読み方はできない。
それ以外の解釈をしてはばからないということは想像を絶するほど頭が悪いか、読んでいないかどちらかである。
読んでいない本を読んだふりをするのは知的虚栄心のゆえで人間的なことであるので、私はとがめない。(私もよくやるし)
しかし、まじめに読んでいない本についての誤った情報をこれほど多くの読者のいる媒体で語ることはぜひ自制してほしいと思う。
(2002-01-29 00:00)