私はほとんどTVを観ない人間であるが、TOKIOの『ガチンコ』だけは例外的に見続けている。
『ガチンコ・ファイトクラブ』は第四期生がいよいよ来週プロテストという佳境に入ってきて、わくわくしているところである。
ところが『ミーツ』の今月号では、連載エッセイ「テレビ虎の穴」(南典子)で『ガチンコ』はかなり酷評されていた。
その部分を採録してみる。
「ボクサー志願の生徒を一般から募り、元世界チャンピオンがコーチ。プロボクサーへと育てるという内容。で、集まったボクサー志願の生徒(番組中では「ファイトクラブ生」と呼ばれる)ときたら、これが揃いも揃って、強面のヤンキー。もしくはチーマーみたいな人ばかり。番組的には、そこがウリなんだろうけど、なぜか全員が全員、コーチに反抗したり、仲間同士で喧嘩をしたりと、ふてぶてしい態度をとるから笑わせる。
この『ファイトクラブ』については、ヤラセ説が取りざたされたりしているが、ヤラセにしても単純すぎるのである。クラブ生がコーチに反抗。時には胸ぐらをつかみ殴りかかる。ボクシングなんて喧嘩とタカをくくっていた生徒がプロのボクサーとのスパーリングで打ちのめされ、本気でボクシングに目覚める。そして企画の最終目的、プロテストの段階では、狂犬のようだった不良達がスポーツマン・ボクサーへと変貌。拳を通じて成長という筋書き。今どき、この三流漫画のような展開。ドラマでもコントでももちろんなく、ドキュメントを主張しながら、こんなもんで視聴者を感動させようというその心根、実に卑しい。」
ずいぶんとてきびしい。
私は「ファイトクラブ」はけっこう気に入ってるので、こう酷評されるとちょっと「かちん」と来る。
そこでひとこと書かせてもらう。
私は「ほんとうの話」と「つくり話」を対立的なものとは考えない。
ドキュメントというのは「ほんとう」のことをありのままに映し出すものであり、ドラマやコントは「つくり話」だというのならば、「ファイトクラブ」のあざといTVドラマ的な劇的伏線やら感動的結末は「ドキュメント」を主張する権利はない、と言うのが南の論理である。
しかし、ドキュメントとドラマ・コントを対立的なカテゴリーとしてとらえる、ということはTVについてはあまり意味があるようには思われない。TVでやってるものは、ぜんぶひとしなみに「TVでやってるもの」という包括的カテゴリーで処理していいのではないだろうか。
「今どき」TVで放映している「ドキュメント」や「ノン・フィクション」や「ストレート・ニュース」が「真実」を伝えていると思っている人はいない。
そこには必ず素材の「選択」が存在する。
ある事実を伝え、ある事実を伝えないこと、あるデータを採用し、別のデータを採用しないこと、ある図像を示し、別の図像を示さないこと。
そのような選択は、どのようなメディアが、どのような「真実」を伝える場合でも、不可避である。
そして、伝達される情報に「選択」がある限り、そこには必ず「物語」が入り込む。
「ドキュメンタリー」は、「ドキュメンタリー」という名前の「おはなし」である。
同じ事件を扱う場合でも、政治的立場のちがうディレクターが撮れば、かりにまったく同一の映像資料から番組をつくったとしても、その編集やナレーションのかけ方や司会者のコメントによって、そこで伝えられる「おはなし」はまったく違うものになっているだろう。
私はべつに報道の客観性についてシニックになっているわけではない。
そうではなくて、私たちがメディアに向かうときに検証すべきなのは、そこで伝えられる情報が「真実か虚偽か」ではなく(そんなことは視聴者には確かめようがない)「それを伝えることを通じて『このメディアは何を言いたいのか?』」という問いに照準させることだろうと思っているのである。
メディアが「伝えている事実」なるものはつねにある種の予断なり価値判断を込みで伝達されている。すべての情報はすでに誰かの価値判断によって「汚れている」。
しかし、現にそれを「伝えている」メディアが、「伝えている事実」に押し付けている「イデオロギー的バイアス」そのものは汚れていない。
情報を「汚している」価値判断そのものは、いわば「むきだし」のかたちで、その純正なリアリティとともに画面に露出している。
つまりTV的な虚構において、まっさらの真実なのは、逆説的なことだが、虚構を媒介にして視聴者に「何か」を信じさせようとしている作り手たちの「欲望」だけなのである。
だからもしTV番組を見て、そこになにほどかの真実を見ようと望むのなら、作り手の「欲望」にただしく焦点を合わせれば、それが「ドキュメンタリー」であるか「ドラマ」であるか「ヴァラエティ」であるか「報道番組」であるかといったカテゴリーの区分にはとくべつな意味はないのである。
いや、むしろ「ドキュメンタリー」や「ニュース」こそ、虚構性はドラマやコント以上かもしれないと私は思う。
それは単に作り手の側がイデオロギッシュに真実を編集している、というだけのことではない。
「撮されているもの」もまた、自発的に物語の形成に参加してしまうからだ。
ふつうの街行く人も、カメラを向けられたとたんに、伝え手が作ろうとしている「物語」の共犯者となって、その暗黙の期待に応えて、進んでその物語を「内側から」生きてしまう。これはごくありふれた人間的反応だ。
それは大阪のTVで街角インタビューを受ける「オバチャン」たちの予定調和的な反応を観れば分かる。あの人たちはマイクを向けられると、一瞬のうちに、「TVに映ってガハハと笑ってインタビュアーをどづく大阪のオバチャン」という「予定調和の型」のうちに飛び込んでみせる。
それを「ヤラセ」というか「真実」というか、その線引きはきわめて困難である。
それと同じことを『ガチンコ』のうちに見て、私は深い興味を抱くのである。
「ヤラセ」というのは、「だいたいこんな感じで収めたい」というプロデューサー側の希望を出演者たちが呑み込んで、その物語を「内在化」した場合に生じる、なかば虚構なかば現実であるような劇的事況のことである。
『ガチンコ』の出演者たちが選び取った役は、彼らの真実の人格ではない。(「がはは」と笑う大阪のオバチャンのように)
けれども、それは、その役を演じることに本人がある種の「自然さ」を感じているようなキャラクターである。
「おめーなんかに俺の気持ちがわかっかよお!」と絶叫するウメモトは内心では、「おれ、こういうセリフを、こういうキッカケで、こういう口調で、がーんと一度言ってみたかったんよね、前から」と思っている。(と思う)
だから、その口調は驚くほどなめらかで、彼らの身体の最深部から響くように聞こえる。
それは、それまでずっと家族の侮りに耐えてきた「お父さん」がある日いきなりちゃぶ台をひっくり返して、「てめーら、一家の主人をなめんじゃねーぞ」と腹の底から怒鳴ったときのそのせりふの「できあいの言葉を借りただけの嘘っぽさ」と「とんでもないリアリティ」の不思議な混じり合いに似ている。
あるいは『ガチンコ』はTVで衆人環視のもとに「サイコドラマ」をやっていると言えるのかも知れない。
出演者たちは、そこで「ふだんの自分」とは違う、「自分がそうでありたい人間」あるいは「自分がそうであったかも知れない」キャラクターを演じている。
当然、それによって、彼はそれまでとは違う社会的ネットワークの中に巻き込まれ、それまで気づかなかった自分の思いや、能力や、資質を「発見」する。
彼らが『ガチンコ』で発見しようとしているのは、彼らの「アナザーサイド」である。
それは(ほほえましいけど)「コミュニケーション能力が高くて、みんなからレスペクトされる好青年」としての「彼」である。
出演者のヤンキー諸君は、心ではそういう「好青年」になりたいのだが、そのきっかけがないのである。
彼らだって言いたいのだ。「おれも大人になんないといけないとおもってさ」
だけど、その台詞はいまの彼らを取り巻く環境の中では「敗北感」の吐露とともにしか語り出されることができない。(「まいったよ、おふくろに泣かれちゃてよ」とか「トモコが妊娠しちゃってさ、所帯持つっきゃねーかな、って」とか「しかたねーよ、親父、高血圧で倒れちゃったかんよ、店、俺がやんねーと」とか)
しかし、誇り高いヤンキーである彼らはできたら「かっこよく」大人へのテイクオフを果たしたい。
『ガチンコ』はその場を提供してくれるのである。
「国分に説教されるのはちょっとむかついたけどさ、タケハラさんにどづかれてみろよ、おめーら、一回。世界ミドル級のチャンプだぜ。世界チャンプにどづかれて、ぐらぐらした頭でさ、町内でぶいぶい鳴らしるくらいじゃイモだ、世界は広い、と思い知ったわけよ、おれも」
これならカッコつくじゃないか。
だから、この「ドキュメンタリー」を契機として、彼らは「よい子」への冒険的帰還を果たそうとしているのである。
作り手と出演者の利害がぴたりと一致しているのである。『ガチンコ』が成功しないはずはない。
ここで展開しているのは、よくできた「作り話」である。
しかし、その「作り話」を作り手と出演者たちは共犯的に「真実」に改鋳しようとしている。
それは誰か他人を騙すためではなく、彼ら自身を騙すためである。
それが「真実」であることを誰よりも彼ら自身が望んでいるからである。
この「作り話」を「真実」に改鋳しようとする若者たちの「欲望」の切なさが、私を『ガチンコ』に惹き付けるのである。
(2002-01-28 00:00)