1月26日

2002-01-26 samedi

The Contender を観て、「底意地の悪い映画やなー、さっすがゲイリー・オールドマン」と感心して、ぼちぼち寝よかと腰を上げたら電話。
もう夜中の12時である。
誰だろ、こんな時間に、と不審に思いつつ電話口に出ると「松聲館のコウノです」と低い声。

「あ、甲野先生! ども」
「まだ起きてましたね」
「ええ」
「ふふふ、ちょっと東京から気を飛ばしてみたら『まだ起きてる』という反応があったので、電話しました」

と、いきなりお茶目な甲野善紀先生である。
最近の先生の「気づき」といろいろな面白話を続々とお聞きする。
私一人で独占するのはもったいないようなバックステージ話の数々を「へえー」とか「ふほー」とか相づちをうちながら伺ったのであるが、いずれも「ここだけの話」なので、残念ながらホームページ上では教えて上げることができない。委細面談。
甲野先生は2月の末に大阪に来られるので、そのとき念願の名越康文先生にご紹介頂くことになった。ありがたいお話である。
先日神戸にいらした折りに「旅のお供に」と差し上げた『ためらいの倫理学』がお気に召したようで、冬弓舎の読者カードに感想を添えて二冊追加注文を頂いた。(内浦さん大喜び)
本はホームページの随感録でご紹介頂いた上、甲野先生のお知り合い5人に買って頂いたそうなので、営業活動へのご協力に謝意を表して、その二冊は冬弓舎から贈呈させて頂いた。
献本のついでに内浦さんが「ウチダ先生との対談を本にしたいんですけど」とさっそくアキンドと化してをオッファーしたら、甲野先生は「いいですね、やりましょう」かと乗り気になって下さった。
甲野先生が関西にお越しになったおりおりに、私が出かけていってわいわいしゃべって、それを内浦さんにテープ起こししてもらって本にするという気楽な企画である。
しかし、問題は何についてしゃべるか、である。
武道の話をするのが筋なのであるが、私が「わお、甲野先生のお話を聞いて、目からウロコが落ちました」というようなことばかり言ってると、合気道会のお弟子さまたちから「ウチダ先生って、ふだん威張ってるけど、けっこう頼りない武道家だったんだ」と失望の声があがる可能性もある。(「失うほどの威厳なんかはじめからなかったんだから、大丈夫ですよ、センセー」とお弟子さまたちから言って頂いても、あまりうれしくないし。)
ここは一つ、21世紀を生きる若者たちに、「日本の正しいおじさんたち」がきっぱり説教をかますというようなスタンスでいこうかしら、などと電話が終わってからいろいろ考える。
ともあれ、甲野善紀先生は私にしてみると、最も尊敬する同世代の武道家であり、かつなんとなく昔からの友だちみたいに「気楽」な感じのするお方であるので、(これは甲野先生の人徳のなせるわざであるが)楽しい仕事になりそうである。乞う、ご期待。

甲野先生に「片手両手取り」の技について、電話でいろいろためになるお話を聞いたので、それを試してみたくて、ひさしぶりの合気道の稽古はそれをすぐにやってみる。
昨日の話ですごく面白かったのは、「上半身を浮かして、下半身を沈めて相手を崩す」形と(これは随感録でも甲野先生が理合の説明を詳しくしている)、「四輪駆動の自動車の後輪ひとつだけが地面についていて、あとの三輪が空中で空転しているような感じで一教を遣う」形。
先生の言ったとおりに説明して、じゃ、ひとつやってみましょうと始めたら、いきなりみんなの技の質が変化して、なかなかすごいことになってしまった。
武道の稽古における「比喩」の重要性ということについて考えてしまった。
『レヴィナスと愛の現象学』について、鳴門の増田さんから「たとえ話」の使い方がとても巧妙である、というおほめの言葉を頂いたが、むずかしい哲学上の概念を理解して頂くためには、「お話」を一つするのがもっとも効果的である、というのが私の持論である。
どうやら、武道の技法についても似たようなことが言えそうである。
「四輪駆動」のたとえがあまりにうまく行ったので、そのあと「序破急」を効かせた入身投げのときに、「破」のプロセスで「ネスカフェ・ゴールドブレンドのCFでさ、『フリーズドライ製法』っていうのがあるじゃない。あの、ほらやかんから液体のコーヒーが流れてきて、それが瞬間冷凍されて砕け散ってネスカフェの瓶に収まるやつ。あの感じで、瞬間的に全身を破砕して支点を全部消して入身に入ってごらん」
というかなりわかりにくいたとえを使ったのであるが、さすが女学院の合気道会の諸君は私の「その場で思いつきメタファー」に慣れているのか、瞬時にそのイメージを察して、またまた動きの質的変化を示してくれた。
すっかりいい気分になって、今度は木曜の「励ます会」で小林先生にうかがった京舞の井上八千代さんの「おいど落として、踵上げて」という舞いの基本姿勢を言い表す言葉をそのまま内廻転三教に応用して、片足を猫足立ちにして斬りの冴えを出すというのをやってみる。これもうまくいった。
これは言い換えると、上半身を落として下半身を浮かせるわけであるから、術者の身体の内側に二種類の相反する運動が発生することになる。それが爆発的なエネルギーを生み出すというのが甲野先生のご説明であるから、ちゃんとその術理にはかなっている。
舞というのは静止状態の中にすさまじいエネルギーが渦巻いているところが身体の美として発現されるわけであり、その渦巻きを開放すれば激しい武術の技に結果するのである。

うーむ、これはこれは、と一人うなずきしつつ下川先生のお稽古へ。
舞囃子『養老』のハードなお稽古をぎっちり1時間。
いつになく先生が立ち上がって何度もみずから型を見せてくれる。
食い入るようにみつめるが、その静止状態の中の沸き立つようなエネルギーはすごい。
エネルギーの暴発を精密な型でぐいっと押し込めているようで、ゆるやかな動きの中に「山神」の野性的で超常的なパワーがくっきりと浮き出してくる。
すごいや。
舞も武道も帰するところは一つである。
ひさしぶりのダブル稽古で身体が熱い。


ためらいの倫理学