暮れからすごい勢いで仕事をしていたら、さすがに背中がばりばりに凝ってしまった。
背中が鉄板のようである。
合気道のお稽古をして、二教や三教といった関節固め技をかけてもらうと凝りがほぐれるのであるが、冬休みがあけたと思ったら、試験中でお稽古は休み。
暮れから二回しか稽古していない。
背中も凝るはずである。
『いきなり始める構造主義』の原稿を書いている。
あと100枚ほど書き足す必要があるだけなので、気楽に書き始めたのだが、ラカンにつなげるためにアレクサンドル・コジェーヴの『ヘーゲル読解』を読み出したら、これを無視できなくなってしまって、それについて書き出したら、すごく長くなってしまった。
これは私が悪いのではなくコジェーヴが(ひいてはヘーゲルが)悪いのである。
ふつうの哲学的理説は話をある程度「はしょる」ことができる。(「人は誰でも死ぬけどさ、自分の死は自分では経験できないわけじゃん」とか「ここにサイコロがあるでしょ? 裏側はみえないけど、裏があるってことは見えてなくても知ってるわけじゃん」とか「他人てさ、ほんとのとこ、何考えてるか分かんないじゃん」とかいう全体に「じゃん」系の説明が可能である。)
しかしコジェーヴ=ヘーゲルの場合はそういうふうに「なんとかじゃん」的に「はしょる」ことがむずかしい。
「人間とは自己意識である」から「ひとり奴隷だけが世界革命の主体である」までのロジックは「風が吹けば桶屋が儲かる」に類するものであり、ひとつリンクをはずすと、もう先へ進めない。
しかるに、フランスの戦後世代はまるごとこのコジェーヴのロジックに「かぶれた」のである。
コジェーヴの「結論」にではない。(それはマルクスを読んだひとはみんなもう知っている。)
そうではなく、コジェーヴが論理をすすめるときの「切り口」に選んだトピックに、である。
それは「他者の欲望」である。
思考は伝染しない。でも思考を語る「言葉遣い」は伝染する。
コジェーヴの「言葉遣い」がどういうふうにサルトルやラカンやレヴィナスに受け継がれたのか、それをちょっと書こうかなと思いたったら、前ふりがどんどん長くなってしまった。
こうなったら、このまま本一冊書いちゃおうかしら。
「失われたリンク:サルトル、レヴィナス、ラカン」
おお、これはいけそうだ。
(2002-01-23 00:00)