1月21日

2002-01-21 lundi

雨もようの日が二日続いたので、膝が痛い。
気圧が下がると膝がしくしく痛む。
まるでエイハブ船長か、ジョン・シルヴァー船長みたいだ。
痛風でびっこをひきひき歩くと、『小公子』のフォントルロイ伯爵みたいな気分になる。
物語の中に同病者を見出すのは、たいへん心安らぐことである。
西洋の作物では、だいたい主人公は上半身の病である。(頭痛とか胃痛とか歯痛とか)。
『地下生活者』にしてもマルテにしてもトニオ・クレーゲルにしてもロカンタンにしても、そうとうみじめな生活をしているが、腰が痛いとか、膝が痛いとか、尻が痛いなどいうことは口が裂けても言わない。腹痛どまりである。
その点やはり漱石はすごい。
『明暗』の津田くんなんか堂々たる痔持ちである。
物語はいきなり痔の手術をすると傷口から出血するから・・・という怖い話から始まるのである。
痔疾者でありつつ、恋愛ドラマの主人公でもありうる人物を造型したことによって、漱石は日本近代におけるのべ数千万におよぶ痔疾男性に「きみにだって痛む肛門を抑えつつ、恋を語る権利はあるんだよ」という福音をもたらしたのである。(私もその福音によって救われた一人である。)
夏目漱石はまことに行き届いた人である。

修論、卒論、レポートなどがどどどどどとやってくるので、それを片っ端から読み倒す。
面白いのもあるし、あまり面白くないのもある。しかし、さいわいなことに、「なんじゃこりゃー!」と引き裂くようなものはない。
名古屋大学からの映画論のレポートが面白かった。
どれほどデタラメなことを書けるか、そこが査定の基準であると宣言したので、みんな気合いを入れて「まゆつば」話を書いてくれた。
意外だったのは、いろいろな映画にジェンダーにかかわる抑圧を見た学生が多かったこと。それも男子学生からのレポートに多かった。
ふーむ。
「階級」という関数が映画解釈の中から完全に一掃されて、その代わりに「ジェンダー」が解釈の鍵になっている。
ちょっと一例をあげてみよう。次のは『シュリ』についての批評の結論部分。(分析そのものはとても面白かったレポート)

『シュリ』の物語構造に分析・解釈を加えることによって、この作品が非明示的には、現代韓国社会のポストモダン化の中に不可避に存在するジェンダーの問題について、男性中心社会がみせる回避的態度を表象するような構造を有していることを示した。
しかし、「キッシング・グラミー」の表象に見られるように、男女の交渉を絶っての共存は考え難い。北の原野から南の海へと抜ける、この作品のセグメンテーションが示すように、ジェンダーに関わる社会的秩序の変革は、男性中心社会の存続の中にあっても「女性」から「男性」へと絶えず提起されるであろう。
『シュリ』のみに限らず、近年の韓国映画全体を視野にいれて、個々の作品内部に顕われるジェンダー的表象を読解する試みは意義深いものであると思われる。それらの作業からえられる成果は当然、同様な社会状況にある日本社会でのジェンダー問題の考察に対しても貴重なパースペクティブを提供するだろう。

このレポートの中の「ジェンダー」という語を「階級」に書き換えて、「男性」を「ブルジョワジー」に、「女性」を「プロレタリア」に書き換えたら、どうなるだろう。
何となく、1970年頃の駒場の「映研」の連中が書いていたような映画批評と似たものになりそうな気がする。
人間の思考パターンというのは、なかなか変わらない。
デタラメに書くというのは、なかなかむずかしいものである。