1月11日

2002-01-11 vendredi

何週間ぶりで目覚まし時計で眼をさます。
自然に眼があくまで眠り続けるという生活のあとに、ピピピで起きるというのはけっこうつらい。
私を眠りすぎだと言う人がいる。それは事実である。だが、私が自堕落な生き方をしているというのは事実ではない。
私は「爆睡健康法」というものを鋭意実践しているのである。
老父は90歳であり、ますます意気軒昂であるが、長寿と健康の秘密を「睡眠」と断言している。
父は壮年期以来ずっと夜は10時就寝、朝6時起き、最近はプラス昼寝、という生活を続けている。ほかにも身体によいことをいろいろしているが、(つねに自己中心的にものごとを考えるとか、好きなだけ酒を飲み、ぱかぱか煙草を喫するとか)やはり決め手は「終わりなき睡眠」にある、というのが老父のご意見である。
私はわが家の家風である「爆睡その他の健康法」を厳父の訓戒に従って実践しているのである。
13時間ほど爆睡すると、そのあと頭は高原の薫風のように透明に澄み切り、集中度が飛躍的な高まる。むずかしい本もすらすら理解できるし、原稿を書けばあら不思議いくらでも書けちゃうのである。
結果オーライ。たくさん寝た方が出力が高いんだから、これでよいのである。
昨夜は六時間しか寝てないので、眠くて眠くて、研究室でパソコンの画面を見ているうちにまぶたが重くなって、午後ずいぶん長い時間ソファーで昼寝してしまった。
木猫になったような気分である。

西宮警察署の副署長以下三名の警察官が研究室にご来訪。
2月1日の西宮警察での術科始め式に合気道のゲスト演武を頼まれたのだが、わざわざそのご挨拶に見えたのである。
合気道の普及になることであれば、手弁当でどこでもゆくが、ついでに地元の警察と仲良しになれる。得難い機会である。
去年暮れからカマちゃん、なをちゃんと、兵庫県警関係との縁組みが続いていて、今回はその流れでいうと「兵庫県警とご縁ができましたシリーズ」第三弾である。
こういうのにはほんとうに「流れ」というものがあるのである。
よい機会なので、K先生の中傷メール事件について、どう処理するべきかご相談する。
悪質な脅迫が続くようなら、生活安全課に「インターネット犯罪」の特別なセクションが最近出来たので、そこで取り扱いますから、いつでもご相談下さいという力強いご返事を頂いた。
というわけなので、K先生に中傷メールを送り続けているバカ学生はいずれ兵庫県警西宮警察署の生活安全課の刑事さんがドアをノックする日が来るから、留置所暮らしに備えて身支度をしておくように。日本の科学警察をなめたらいかんぞ。

ひさしぶりに合気道のお稽古。
KCの中学三年生5人が先日から参加している。
中高部にポスターを貼った甲斐があった。(ウッキーありがとう)
合気道会が迎えるはじめての中高部生徒である。
さすがにみんな身体が柔らかい。
これをきっかけに中高からどんどん入ってくれるといいのだが。

稽古が終わってソッコーで御影に戻り、夜は三宮で『ミーツ』の江さんと「街場の現代思想」の挿し絵四コマ漫画のアジサカ・コウジ画伯と会食。
今シーズン初「ふぐ」を食べ、「鰭酒」をごくごく頂く。美味しい。
ここは『ミーツ』の接待である。ご馳走様。
北野坂をのぼってローズガーデンの「ジャック・メイヨール」へ。
江さんの岸和田弁とアジサカさんの熊本弁とウチダの東京弁がはげしく入り交じるトライリンガル状態。話題は最初から最後まで「岸和田だんじり」と「レヴィナス」のことだけ、というふしぎな酔客である。
江さんにしてもアジサカさんにしても(アジサカさんは奥様がユダヤ女性で、「じいちゃん」は腕に数字の入れ墨が残るという強制収容所サヴァイヴァーというユダヤとは因縁浅からぬ方なのであるが)じつに深く、それぞれの生活経験の襞を掘り起こすような仕方でレヴィナスを読んでいる。
彼ら「市井のレヴィナシアン」たちの激しく強い「読み込み」(sollicitation)を通じて、レヴィナスの思想はこれから日本の精神的風土の中にしっかり根づいてゆくだろう。私の翻訳や解説がその作業の一助となるのならさいわいである。

卒論、修論のチェックで毎日何本もコピーを読む。
総じてレヴェルはけっこう高い。
しかし、論文を書くということの意味を「勘違い」している学生もいる。
「誰に宛てて」論文を書いているかが分からないような論文が散見される。
よい論文はちゃんと読み手のことを具体的に思い浮かべている。だから言葉がひとつひとつ具体的で、言いたいことがきちんと伝わってくる。
それに反して、なまじ学術性のようなものを意識して、定型的に書かれた論文になると、「誰が」「誰に宛てて」書いているのか、その具体性が希薄になる。
読んでいて、書き手の顔が見えてこない。読み手の顔も思い浮かばない。
いろいろと先行研究から引用はされているし、誰それの理説を取り上げて批判したり評価したりしているのだが、「何のために」そんなことをしているのか、「誰に」それを知らせたいのかが分からない。
学術論文というは「そういうふうに書くものだ」という先入観のせいで、テクスト全体から生気が失せ、無意味にいじけてしまっている。
基本を忘れてはいないだろうか。
ものを書くというのは、(挨拶をするのと同じで)、「言葉の贈り物」をすることだ。
正確なデータを提供することも、厳密で明快な論理性をこころがけるのも、誰のためでもない。「読者」への贈り物だ。
「私はこんなに勉強しました、えらいでしょ?」とか「私はこんなに物知りなんですよ、すごいでしょ?」なんていうメッセージは誰に対する贈り物にもならない。そんなメッセージをもらって喜ぶ人なんて、どこにもいない。
ものを書くときにいちばんたいせつなものは、愛だ。
自分が論じている対象への愛、読者への愛、論理への愛、知への愛、厳密さへの愛、物語への愛・・・
愛のないテクストはゴミだ。
でも、そのことを若い人たちにきちんとアナウンスする人があまりに少ない。
All you need is love.
ジョン・レノンだって、そう言ってるじゃないか。