不思議な夢を見た。
これまで自分の見た夢の話なんかしたことないし、他人が夢の話をしているとうるさがって聞き流してきた私であるが、起きたあとあまりに鮮明に記憶していたので書きとめておく。
こんな夢だ。
私は相模原の実家らしきところから新横浜にゆく用事がある。
電車で行こうかバイクで行こうか迷ったすえに、バイクで行くことにする。
厚木のあたりで雨が降ってきて日が暮れ、私は道に迷ってしまう。
知らない山道を走っているうちに伊豆半島の山の中に迷い込む。
大雨の中、山道を下ると横須賀らしき街に出る。(このへんの地理関係はむろんでたらめである。)
そこは殺伐とした街で、トラックが歩行者を轢いて停車もせずに走り去る。轢かれて足首から先がなくなった男も「ふざけるな」と怒っている。私は怖くなって、バイクを速める。
右に海を見ながら走っていると、いつのまにか雨も上がり、初夏の青空の下、水を満々とたたえた水田がどこまでも拡がっている。
水田の中に家が一軒ある。和風と洋風の折衷のような、とても感じの良い家である。
バイクを置いて、その家に入り、風呂場で濡れた衣類を脱いで、白いバスローブを借り着する。
その家の中には、にぎやかな太ったおじさんと、物静かな青年(この二人は知らない人)と、I田先生と、るんちゃんがいる。みんなバスローブ姿でくつろいでいる。
家の中は涼しくて静かで、窓からは南の海と西の水田だけが見えて、まるで船に乗っているようだ。
そこで太ったおじさんにウィスキーの水割りをふるまわれながら、その家の成り立ちについて不思議な物語を聞いた。
そこは何かに夢中になっていて、とても疲れてしまったひとが「すとん」と落ち込む場所なのである。
そこでみんな好きな音楽を聴いたり、お酒をのんでおしゃべりをしたり、本を読んだりして、気分がよくなったら、元の世界に帰るのである。
おじさんは現代音楽家で、自分がつくっているとんがった音楽に疲れると、ここに落ちてきて、好きな音楽(おじさんは照れながら「実は山下達郎が好きなんだよ」と告白する)を聴きながらごろごろしている。
青年は建築家だそうである。
I田先生はいやなことがあってぷりぷり怒って寝付いた夜は(教授会のあった夜とかね)、たいていここに「落ちて」来てしまうのだと教えてくれた。
るんちゃんは(なぜかまだ六歳くらいなのだ)、ひとりでご機嫌に遊び回っている。
ここで何日過ごしても、何ヶ月過ごしても、もどるときは、もとの日、もとの場所に帰れるんだとおじさんに説明されて、「ぼくも、この家に来てもいいのかな」と訊ねると、「だって、あなたもう来てるじゃない」とおじさんが笑った。
というところで目が醒めた。
あれは何だったんだろう。ほんとうに居心地のよい家だったけれど。
だれか精神分析して下さい。
朝日新聞に「年賀状は虚礼か」という短いコラムがあって、その中に年賀状反対派の代表として團伊玖磨のこんな言葉が紹介してあった。
「『出しません。いただいても読みません。出さないのに、来たのを読んでは悪い』と言ったのは作曲家の團伊玖磨さんだった。『年賀とは本来参上すべきものであり、はがきですませるなんて全く無礼だ』と吐き捨てるように語ったものだった。」
あの洒脱な人が「吐き捨てるように」力んでこんなことを言うというのはなんだかそぐわない気がする。だから、たぶんこれはコラムを書いた編集委員が團のことばをとり違えているのだろうと思う。
だって、もし團伊玖磨が「手紙を出さないものには手紙を読む権利がない」という考えているとしたら、その主張にはまったく論理性がないからだ。
コミュニケーションというのは相称的なものではない。
というか、相称的ではありえないし、あってはならないものだ。
レヴィ=ストロースが『構造人類学』で繰り返したように、コミュニケーションとは「言葉の贈り物」である。
それは「言葉」それ自体に「価値」があると信じられていた太古のときの、コミュニケーションの起源の記憶をとどめている。
「言葉の贈り物」を受け取ったものは、返礼給付の義務を負う。
「こんにちは」
「あ、こんにちは。お元気ですか?」
「ええ、元気です。そちらは?」
「ええ、こっちもみんな元気です。どちらへ?」
「ちょいと西銀座まで・・・」
というふうに延々と挨拶の応酬は続くのである。
終わりがないのは、返礼給付はつねに「贈られたもの」に対して過剰になるからだ。
「こんにちは」
「こんにちは」
で贈り物の価値が相殺されてしまえば、コミュニケーションは終わる。
コミュニケーションの本義は「止めないこと」にある。
だから、つねに「贈られた価値」以上を返礼しなければならないという心理的負債感が私たちに次の言葉の贈り物を発信するように駆り立てるのである。
誰だって「借りを作る」のは嫌いだ。
だから自分が出していない相手から年賀状が来くと、必ず心に痛みを感じる。
それは「言葉の贈り物に対する負債感」である。
團伊玖磨が年賀状を「読まない」のはおそらく彼がその負債感を人一倍強く感じるたちだからだと私は思う。
そして、自分がその返礼給付のために数日間の余暇を犠牲にしかねない人間であることを知っているからだと思う。(團伊玖磨クラスだと年賀状も2000枚くらいくるだろうし)
年賀状書きに費やす時間のせいで、もっと多くの、もっと緊急の「返礼義務」に支障が出ることを知っているから、團は心理的負債感をできるだけ軽減すべく、「泣く泣く」年賀状を読まないのである。(ほんとは読みたいし、返事したいのに。)
私はそう思う。
だから、「年賀に参上すべきだ」という團の言葉もべつに正論を吐いているのではなくて、純粋にプラクティカルな提案と思って聞くべきだろう。
ご存知だと思うけれど、年賀というのは迎える側にしてみるとほぼ限定的な期間に、限定的な趣旨で、多人数が訪れてくれるので、「一気に全部の挨拶を片づける」ことのできる、たいへんに便利な制度である。
これが一年365日だらだらと挨拶に来られたらかなわない。
いちいち個人ごと団体ごとに別の機会を設定して、そのつど招じ上げて、そのつどの話題で一夕盛り上げていたら、主人は過労死してしまう。
年賀だからこそ、いちどに何十人来ようと、「やあ、おめでとう」で済ませて次の客のために席を立っても、すこしも無礼にならないのである。
だから、私に年賀状の返事を書かせるくらいなら、そちらが年賀に家まで来てくれ、と團伊玖磨は「お願い」していたのだと私は思う。
「吐き捨てるように」言ったのと、「必死でお願いした」とは、だいぶニュアンスが違うけれど、私はそうだと思う。
團の言葉は「きちんとコミュニケーションしたいけど、身体がいくつあっても足りないんだよお、ごめんね」というふうに解釈するのがいちばんまっとうだろう。
團さんは亡くなったのでもう確認する術はないですけど。
私は250枚の年賀状にネコマンガを描くだけなので、仕事は半日で終わる。
だから楽だ、というだけではなく、年賀状のやりとりだけでつながっている関係があって、それをけっこう大切に思っているからである。
代表的なのは漫画家のほんま・りうさんとの年賀状である。
ほんまさんと私は1975年の夏に、パリからの帰りの飛行機で隣り合わせに坐って、十数時間ずっと漫画の話をしていた。(ほんまさんは、漫画家の激務で身体を壊し、半年ほど休業してスペインに遊んだ帰りだった。私は卒業旅行の帰り。)
明大漫件の愉快な逸話をたくさんうかがった。
それから26年間毎年年賀状だけが行き来している。
ときどきほんまさんから新作漫画が届く。
こちらからはあまり差し上げるものがない。
ほんまさんがどんな容貌の人だったのか、もう記憶も定かではない。向こうも同じだろう。
でも今年も年賀状を書く。
こういうのってけっこう大切なことだと私は思う。
(2001-12-31 00:00)