12月28日

2001-12-28 vendredi

大阪能楽会館へ養成会の発表会を見に行く。
能二番、『鍾馗』と『猩々乱』。狂言『蝸牛』。それに素囃子と独鼓『鵺(ぬえ)』。
養成会の発表会はプロになるべく養成中の生徒さんたちの他に錚々たる能楽師が登場してしかも無料という大変リーズナブルな催しである。能が見たいがお金がちょっと・・・という学生さんにとってこれほどよい機会はない。次回は2月27日午後6時開演。オススメです。
『鍾馗』ははじめて見る能である。シテは生徒さん、元気に演じていたが曲そのものはあまり深みがない。
『猩々乱』もはじめて。(シテは上野朝義さん)ウチダは去年の大会で『猩々』の舞囃子をやったのであるが、同じ曲とは思えない。なるほど、プロとはこういうものか・・・
ウチダのご贔屓の大倉慶乃助くんがぱこーんぱこーんと気持よく大鼓を打っている。
慶乃助くんはまだ18歳。舞台裏でお会いするとシャイな少年だが、舞台に立つときりりと引き締まった思い切りのよい囃子を打つ。私がいつか能をやるときが来たらぜひ大倉慶乃助くんに大鼓を打って頂きたいと思っている。
『蝸牛』は善竹家の若手(隆司、隆平、忠亮)の息の合った狂言。忠亮くんはSMAPのクサナギくんに酷似していて、TVのヴァラエティの罰ゲームでクサナギくんが狂言をやらされているような錯覚にとらわれる。
独鼓の『鵺』は女学院OGの高橋奈王子さん。少しゆったりめの喜多流の高林呻二さんの謡に合わせてぴしぴしと小気味よく打ち込んで行く。堂々たる舞台である。おそらく彼女がうちの大学の卒業生では最初のプロの囃子方ということになるのだろう。
来年のさらなる活躍に期待したい。

寒空の中を帰ってホーライの餃子と豚饅を食べながらTVでハリソン・フォードのインタビューを見る。この間はシガニー・ウィーヴァーをやっていた。たいへんに面白い。
ハリソン・フォードが『逃亡者』のときには製作、監督、主演を兼ねたようなかたちで作品をコントロールしていたと聞くが、というインタビュアーの問いに「それは、違う。私は・・・ filmmaker チームの一員だ」と答えていた。
字幕では「映画製作者」と訳されていたけれど、それではプロデューサーと区別できない。
フィルムメーカーはフィルムメーカーである。映画作りに参加するすべてのスタッフ、キャストはひとしく「フィルムメーカー」と呼ばれるべきである。それは個々人の自称であるだけでなく、映画の企画、製作、宣伝、流通のすべてにかかわった人々を含む集合名詞である、とというのが私の意見である。(実は、ウチダはこれに加えて「解釈者」もまた「映画をめぐる神話の語り手(myth-maker)」としてフィルムメーカーの末端にでも算入していただけないかしらと思っている。だって、映画というのは、神話込みでナンボの商品なんだから。)

K先生からメールがくる。
先生はこの春から女学院の学生らしき人から執拗な中傷メールを自宅あて、掲示板あて送りつけられていた。そのせいで先生のホームページは掲示板は差出人が自分のメールアドレスを書き入れないと書き込みができないシステムに変更されたのである。
この中傷メールの差出人は先生の講義を聴講している本学の卒業生の携帯に繰り返し「死ね」とか「授業にくるな」といった脅迫メールを公衆電話から送りつけている学生と同一人物と思われる。
「死ね」という文言があった以上、これは刑法222条の「脅迫罪」に相当する。懲役二年以下の刑である。たぶんやっている学生は自分が刑法に抵触する重罪を犯しているという実感はないのだろうが、福岡地裁の事件では同じようなケースについて先日実刑判決が下された。
学内の教育活動に関連して刑事告発を招くのは心苦しいことだが、このような卑劣な犯罪を「学生だから」というだけの理由で看過することはできないと私は思う。
ひとの名誉を損なう社会的行動がどれほどの責任とリスクを伴うことなのか、学生たちはあまりに知らない。

寝しなに立花隆の『東大生はバカになったか』を読む。
少し読んだだけだが、「東大生はバカになったというのは幻想であって、実は昔からずっとバカだった」という反論が予測される。
これについてなら私には確言する資格がある。