名古屋のホテル暮らしでも今回はシグマリオンのおかげでインターネットができる。
毎晩、寝しなにウィスキーをのみながら鈴木晶先生の日記を読むのが楽しみであった。その先生の少し前のホームページになかなか大事な話が載っていたので、再録させて頂きます。
先日、ある大学の先生が「学生が、いまアルバイトに費やしている時間の半分でも勉強してくれたら」と嘆いていた。その先生が学生からきいた話では、学生たちはたんに金のためにアルバイトをしているのではなく、授業よりもアルバイトのほうが「面白くて、ためになる」から、やっているのだそうだ。
なるほど。それなら大学なんかやめて働けばいいではないか。つまらないところに長居をすることはない。時間の無駄だ。
これから数年のあいだに大学がばたばたと倒産し、大勢の大学教師が失業することになる。大学教師の立場上、いってはいけないことなのかもしれないが、日本は大学が多すぎる。本来大学にすすむべきでない若者まで大学に来ている。それが問題だ。
彼らにとっては、授業よりもアルバイトのほうが面白いし、ためになる、というのは事実だろう。(いまはとりあえず、教師の教え方がへたなために授業がつまらないという問題はちょっと措いておく)。
大学はレジャーランドだといわれるようになってから久しいが、少なくとも私は、頭が古いといわれようと、大学というところは学問と教養を身につけるところだと思っている。学生時代に遊ぶなと言うつもりは毛頭ないが、遊ぶ場所は他にいくらでもある。
学生の興味を惹くために、授業でカラオケをやったり、ラーメンをつくったりする大学もあるそうだ(栄養大学や家政科ではなく)。ばかじゃないの。
学生集めのためにおしゃれなレストランをつくったり、気前よくパソコンを貸してくれる大学もあるそうな。学生が集まらなければ、つぶれてしまう、という気持ちはわかる。でも、他人事だから言えるのかもしれないが、そんな大学はつぶれたほうがいいんじゃないのかね。
これからの「冬の時代」に大学が生き残るためには、安易な学生サービスにつとめることよりも、今よりも厳しく学生をしごいて、少しでも「優秀」な学生を世に送り出すことのほうがずっと大事だという気がする。
学生をしごく前に、やる気のない教師をしごく必要がある、という問題もある。
アメリカの大学では学生が教授を評価するのが常識だが、アメリカの場合、授業はつまらないが楽にAがとれる、という教授の評価は最低だそうである。日本の場合は反対だ。だから人気取りのために甘い点をつける教師が増える。学生も学生で、楽に単位がとれる授業に殺到する。困ったもんだ。日本の大学は卒業するのが簡単すぎるよ。
というのが鈴木先生の今日の大学への辛口のご評言である。ウチダも先生のご意見にはほとんど同意見である。
ただし、「このあと大学は厳しい淘汰の時代にはいるであろう」という私の見通しと「そんな大学はつぶれたほうがいいんじゃないのかね」という鈴木先生のご判断のあいだには微妙な温度差がある。
それは私が大学の果たすべき社会的機能のひとつに「失業率の引き下げ」を含めているからである。
勉強しない大学生が大学を逐われて労働市場に参入したら、完全失業率は5・6%では済まない。それによって日本社会が負うことになる社会的コストは、勉強しない学生がバカであり、バカな学生をバカな教員が再生産していることによってもたらされる被害よりもあるいは大であるかも知れないと私は心配しているのである。
まあ、私は根が心配性だから、そういうふうに悪い方に悪い方にものごとを考えてしまうのかもしれない。ともあれ、いまの大学が、何かよきものを生み出す機構であるというよりは、せいぜい「より悪い事態」を先送りする機構でしかないのはちょっとまずいのではないか、という見解において私と鈴木先生のあいだに大きな意見の相違はないようである。
で、鈴木先生のご意見への傍証として、ウチダが付け足したいのは葉柳先生にお聞きした「学生集め」のすごい話。
九州の某大学は、学生が来ないので、「中国人留学生」を大量に受け容れることにした。留学生といっても、大学に来て勉強するわけではない。大学はただ大学学生証を発行して日本在住の法的保証をするだけである。
彼らは入学手続きをすませると、それぞれ大阪、東京に散って、四年間労働に精を出し、お金をためて国へ帰る。
留学生は出稼ぎができ、大学は定員割れの危機を逃れることができる。大体学生が学校に来ないんだから、施設も損耗しないし、教員の人件費もかからない。学生からは満額の授業料がいただけるし、留学生を受け容れていると、文部科学省からも多少は予算がつく。留学生を送り込む組織(留学生版のスネークヘッド)には多少のキックバックをしなければならないようであるが、関係者全員ハッピーというめでたい図式である。
問題はいくらなんでも文部科学省が怒るということである。(そらまあ、怒りますわな)そこで在学生の現住所が大学の通学圏にない学生の数が一定以上の比率を超えたらペナルティを課すと脅かした。(当たり前である。教育機関として機能してないんだから。)
しかたなく、その大学は留学生の一部を他の大学に「譲渡」することにした。
そして学生名簿の譲渡に際してなんと「入札」を行ったのである。そしたら応札した大学がいくつもあった。つまり日本各地の「定員割れ」大学がその名簿を買って、名目上の留学生を自分のところの学生の頭数に算入しようとしたのである。
すごい話である。
生き残るためにはスネークヘッドとの闇取引も辞さないという大学の態度には鬼気迫るものがある。もはやパソコン貸与とか娯楽施設の充実とかいうような牧歌的な段階は終わっているのである。
末期的状態にある組織は、その組織が「そもそも何のためにある」のかが忘れられて、組織そのものの「生き残り」が最優先課題になる。(銀行もゼネコンも大学もその点では変わらない。)
経験的には、そのように自己延命が最優先になってしまった組織はいちはやく淘汰されることになるのである。かわいそうだけどそれが人生つうものなのよ。
しかるに本学における喫緊の問題は、「生き残り」のために何かしようということさえしない組織はどうなるかということである。
これが意外なことに、「何もしない」というのは「けっこう正解」な場合が多いのである。
ビジネスマンの方々にお聞きすると、企業というところでは「何もしない社員」というのが相当数いるのだが、これは別に「給料ドロボウ」というだけで、特段の悪さをするわけではないので、「飼い殺し」にしておけばそれほど邪魔にはならないらしい。窓際で一日日経を読んでお茶を呑んでいる社員というのは、言われるほどに迷惑な存在ではないのである。
それよりもっと悪いのは、「仕事をすればするほど会社が損をする」社員である。
この「こいつらが必死に仕事をすればするほど会社が損をする、主観的には善意でかつ勤勉である社員」をどうやって「無為」の状態にとどめおくか、ということが各企業における深刻な問題なのである。
たしかにスネークヘッドから留学生を買うようなアイディアを思いつく大学人は「何もしない」給料ドロボウではない。
バブルのころに学生の納付金をそのまま定期預金にしておくのはもったいないから株で運用しましょうなどということを理事会に提言して、何十億円もの金をドブに捨てさせたのはこの種の「勤勉な」大学人である。
翻って本学をつらつら見るに、「何もしない」同僚は散見されるが、考えてみると、この人たちの及ぼす被害はさしあたり「プラスがない」という程度のものにすぎない。それに比して、あれこれといろいろなプロジェクトを思いついて、がんがん組織改革などを提言する教員(あ、おれもそうか)は結果的にとんでもないダメージを大学に与える可能性がある。
金融関係の方に聞くと、東京三菱銀行はバブルのときに「ぼー」っとしていて、不動産投資をぜんぜんやらなかったので、結果オーライで不良債権を抱え込まずに健全経営になっているらしい。
「何もしないでぼーっとしている」ことの効用というものもたしかにあるのである。
パンダとかナマケモノとかが自然淘汰を生き延びているということにはおそらく何らかの摂理が働いているのであろう。
あるいは神戸女学院大学は「パンダ」として生き残る道を探るべきかもしれない。
何もしないで笹の葉をぱりぱり囓って、女子高校生に「かわいー」とか言われているようなあり方が意外に「大正解」という可能性もある。
冬休みはひとつこの問題についてしばし沈思してみたい。そして、「大学パンダ化五カ年計画」の原案を策定して、これを学長にご提言して・・・あ、また「提言」か。もう、やめよう、これは。
というわけで、なんだか急激にやる気をなくしたウチダは大学関係の書類作成とかの宿題をぜんぶ放り出して、大槻能楽堂に観能にでかける。
とかいいながら、移動時間が惜しいので、駅のホームでも電車の中でもシグマリオンでばしばしと本の原稿だけは書き続ける。
番組は「清経」「妓王」「熊坂」。
「清経」は謡を稽古したことがあるし、仕舞もやったので、「おお、本当はこういうふうに演じるのか」と感心しながら眺める。
「妓王」は観世流にはない能。なぜかたちまち爆睡。舞台上ではワキの福王和幸くんが必死で睡魔と戦っている。現に舞台に出ていて、もうすぐ自分のせりふがある状態でなお睡魔に抗しきれずにいる。笛方も地謡のみなさんも瞑目しておられるが、果たして起きているのか寝ているのか判然としない。それほどにネムイ曲であった。
「熊坂」は大西礼久さんという若手のシテ方が元気いっぱいに演じられていて、たいへん楽しめた。ウチダは大阪ではこの大西くんに注目している。豪放で端正な芸風である。
そのあと梅田の紀伊国屋書店で自分の本の売れ行きをチェック。平積みなのだが、奥の方に隠れていて、おまけに二冊しかない。『ミーツ』の江さんの情報では神戸の本屋では初日にすでに売り切れで買えない書店もあったそうであるから、あるいは売れ行き好調で仕入れが追い付かないのかもしれない。うん、そう考えることにしよう。
(2001-12-23 00:00)