12月17日

2001-12-17 lundi

名古屋大学集中講義第一日目。
一年前の書いたシラバスでは「物語の精神分析」としてあったのであるが、お題は「映画の構造分析」。
一年も間があくと、こちらの関心もいろいろ変わるのである。
私の言いたいことは簡単で、「映画の解釈は好きにしてよろしい。解釈はこうでなければならない、というような規範はない」というものである。ただし、「好き放題にやってよろしい」と断言するためには、それなりの学術的基礎づけが必要だ。
つまり、「好きなことをさせていただくための、地均し」というか基礎づけをしようというのである。
いまから五日間、映画ネタで好き放題おしゃべりをさせていてだくわけだが、そのおしゃべりは「映画については、好き放題おしゃべりをしてもよい」ということを論証するための作業なのである。
つまり私は仕事をするというかたちで仕事の報償をすでに受け取っているのである。だって、私が仕事の報償として要求していることは「仕事させて」ということだからである。(ややこしいことを言ってすまない。)
しかし、ラカンも言っている。

「人間の欲望が欲望するのは、欲望そのものであり、その全く満たされることのない空虚状態にある欲望そのものである。」

つまり、「ああ、腹減った、カツ丼食べたい」と思っていたら、カツ丼が目の前にでてきた、というような時に人間はもっとも欲望の充足に接近しており、欲望を満たすべくカツ丼をわしわしと食べ進んでゆくにつれて、急速にカツ丼への欲望は失われる。だから、欲望の絶頂と欲望の充足が同時的に経験されるということは原理的にありえないのである。
であるからして、欲望の激しい人間は、当然にも、欲望の充足をではなく、充足の延期(カツ丼が目の前にあって、いままさに箸を伸ばそうとしているその至福の不充足感)そのものを欲望するようになるのである。
ユーミンも言っているではないか。
翌日から欠ける満月よりも、私は十四番目の月が好き、と。
ユーミンはラカンと同じことを言っているのである。

今日は初日なので自己紹介と名刺代わりに聴講生たちの映画の見方についてちょっとした質疑応答。
とりあえずバルトのテクスト論と「映画的なもの」という概念を説明したところで『エイリアン』を鑑賞する。
映像記号論の素材としてこれほど絶好のものはめったにない。
今日も新たにいくつも発見をしてしまった。
映画のクライマックスが完全に「ポルノグラフィ」であることにあらためてびっくり。
映画の謎解きは明日のお楽しみということで、第一日はおしまい。

独文の先生方のご招待で、夜は歓迎会。
名古屋で一番美味しいと葉柳先生ご推奨の浜木綿というお店でぱくぱくご飯をいただいて、ビールや紹興酒をぐいぐい飲んで、どんどんしゃべる。
日本の大学はこれからどうなってしまうのであろうという切実な問題をかなり真剣に語り合ってしまう。
清水先生、シュラルプ先生、中村先生(がお二人)、どうもごちそうさまでした。
明日も一日お仕事である。今日は早く寝よう。