12月11日

2001-12-11 mardi

大学院のゼミは世阿弥の『風姿花伝』。
身体論として読むつもりだったが、改めて読み返してみて、すごい芸論だと思った。
私が改めて解説する必要なんかないのだけれど、世阿弥が言っていることはただ一つ、「〈花〉というのは実体ではなくさまざまなファクターをリンクするネットワークの機能である」ということである。
「時分の花」と「誠の花」の区別はよく引かれる言葉だが、これを「時分の花」はうつろいやすいいつわりの魅力で、「誠の花」こそ堅牢なる真の魅力である、というふうに私は思い込んでいた。
よく読んだらまるで逆であった。
「時分の花」(つまり17、8歳ころの匂い立つような美貌と芸の輝き)こそが「実」なのである。それは肉体という生理的実体にしっかり根拠をもった、ほとんど物理的生理的な「フェロモン」の力のことなのである。
それに対して「誠の花」(老木に花の咲くような幽玄の美)は、完全な「トリック」である。それは動員できる限りの演劇的技巧と演出術を駆使したステージ・エフェクトのことなのである。
「時分の花」はシテの自足し、屹立する肉体に根拠をもつ。
「誠の花」は演目の選定、衣装、働き、発声法、リズムの取り方、見所の客の批評眼、見所の客の集中度、音響効果、湿度、上演時刻、立ち合い相手の座の演目とシテの質・・・そういったパフォーマンスに影響する「すべてのデータ」を織り込んで「最大の美的効果」はどのようにしたら発動するか、という緻密な計算の上にはじめて成立する。
そして、世阿弥はこの複合的な演出効果のこと「花」と名づけたのである。
見所の観客を舞台に没入させなければならない。
観客は「演出の技巧」を嗅ぎ取った瞬間に舞台から醒めてしまう。
だから、絶対にそこに緻密に計算され尽くした演出的技巧が存在することを気取られてはならない。
周到な準備の上に成り立った能舞台を、まるで奇跡的に偶然の出会いが果たされた場であるかのように観客に思い込ませるところが-いまこの瞬間を逃したら、もう二度とこれほどの舞台に出会うことはできないだろう、という幻想を抱かせるところが-能楽の工夫のしどころである。
そのことを世阿弥は「秘すれば花」と言ったのである。
だから、これまで書かれたほとんどすべての能楽論は「この瞬間を逃したら二度と見ることはできない至高の舞台に私は出会ったことがある」という見所の経験を恍惚の語法で語るということを飽きることなく繰り返してきたのである。
つまり私たちは600年間にわたって世阿弥の「てのひら」の上で踊ってきたのである。
私が世阿弥はすごい、というのはそのことである。

午後は来年のゼミの面接。
先週の説明会で「うちのゼミは総文きっての変わり者の巣窟です。大学に入って、『私はちょっと変人なので、まわりから浮いてて、なかなか友だちができない』とお嘆きのあなた。ウチダゼミに来れば、もう安心です」というゼミの内容とまるで関係のないゼミ紹介をしたのが功を奏してのか、あきらかに「ちょっと変わった」学生たちが研究室のまえにぞろぞろたむろしている。
初日の面接者は20人。ひとり5分から10分くらい面接をしたので4時半から始めて終わったら7時を回っていた。
しかし、よくもまあ面白い人たちが団体で来たものである。
変人ゼミであるから、選考基準はもちろん「変人」であること、「レアな能力」を持っていることである。
「自己PRをどうぞ」という問いかけに「低い声」というお答えの人がいたが、これが「応答における意外性」の第一位。
来年上演する舞台の構想を語ってくれた学生さんと、「サントリー・ミステリー大賞」に応募した経験があるという作家志望の学生さんが「文科系」では特異能力の上位。
しかし、ウチダを圧倒したのは、「特技:幽体離脱」という学生さんであった。
お話の内容はほとんど『恐ろしくて言えない』(@桑田乃梨子)の世界。
さっそく幽体離脱経験の苦しさや、低級霊の「祓い方」などについて密談。ウチダも「香港猫の祟り事件」や甲野先生による「祓い太刀」の効用などについて熱く語る。
こ、こんな才能が身近にいたとは。これはぜひウチダの「心霊問題アシスタント」になってもらわねば。
そうだ、私がマネージャーとなって、研究室に「ウチダ超常現象研究所/除霊します」とか看板出したらどうかな。うちの学生さんの中にはあきらかに低級霊に憑かれている人がいるからね。
でも、キリスト教の大学で「除霊」はまずいか。やっぱり。