12月6日

2001-12-06 jeudi

眠い。
明け方四時頃に目が醒めて、しばらく寝付けなかったので睡眠不足である。
私はこのところ9時間から10時間爆睡しているので、それ以下だと寝たりなくて、ぼーっとしている。世間のサラリーマンさまたちが聞いたら殴り倒されるであろうが。

学校に行ってから、甲野先生が明日お見えになるので、その準備をどたばたする。
どたばたしているうちに朝日新聞の大西さんという学芸の記者の方が来る。
来年のお正月の学芸欄の記事に「21世紀のキーワード」というような特集があって、そのキーワードのひとつに「ためらう」という言葉が選ばれ、(ほかには「ほぐす」とか「抱きしめる」とか「たちどまる」とか)「ためらう」ことの専門家ということでコメントを求められたのである。

インタビューは二時間に及び、途中からマンガや映画の話になって、宮崎駿の天才性や大瀧詠一のコピーライト論などでわいわい盛り上がったのであるが、かんじんの「ためらい」話はどうもご期待に添えるような答弁ができなかったような気がする。
というのは、大西さんは「ためらう」というみぶりのうちに、決断を留保し、歩みを止め、静かに熟慮する、というかなり知的かつ静寂的な構えを期待しておられたように拝察するのであるが、ウチダ本人はぜんぜんそういうタイプの人間ではないからである。
私はご存知のように関西弁で言う「イラチ」、東京でいう「せっかち」である。

「ええい、ぐずぐず言うんじゃねえよ。はえー話が、どうなってんでえ」

というのが私の真骨頂であり、とにかくひたすら息せき切って急いでいる人間である。
30歳のころに、「ウチダの理想の自分のイメージって、何しているところ?」と聞かれて「空港の待合室を腕時計を見ながら、書類鞄を振り回しながら汗だくで疾走している姿」と答えたような人間である。
そういう人間がなんで「ためらいの倫理学」というような本を書いたのか。
もちろん、そういう拙速主義的な生き方を反省するためではない。(私の辞書に「反省」という文字はない。)
「ためらう方が話が早い」からである。
私はとにかく「結果」を急ぐ人間である。
とにかく、はやく結果を出そうじゃないの、というのが私のあらゆる問題についての基本的な構えであり、自制することのできない欲望である。
しかるに、結果を急ぐときに、「正論」でひた押しに押して行くと、これが必ずと言っていいほど、「時間がかかる」。
正論を語る人は、結果が早く出るか遅くなるか、というようなことにほとんど配慮しない。正しさを正しさとして貫徹するプロセスそのものに意味があるわけで、それが受け容れられるかどうか、多数派形成につながるかどうかといった結果は副次的なことにすぎない。
その結果、正論が正論であればあるほど、それが現実化するチャンスは減少する。
正論というのは、加藤典洋さんふうに言うと「対立者を含んだかたちで全体を代表しようとする」志向が欠落している論のあり方である。
なにしろ「正しい」のである。とういことは、それに反対する人間は「間違っている」に決まっている。
人間、何が哀しくて「間違っている」人間の立場を含めて代表しなくければならぬのであろう。
だが、この「正論的」な白黒きっぱりのうちに危険な陥穽がある。
正論によって「間違い」と決めつけられた立場は、たとえ少数であろうとも、きわめて堅固な反対派のケルンを形成する。そしてあらゆる機会をとらえて多数派主導による合意形成を阻もうとする。
この反対派はしぶとい。向こうだって命がけである。簡単に潰されるわけにはゆかない。
私は「イラチ」なので、この反対派に足をひっぱられたり、それを潰したりする時間が「惜しい」のである。
だから、誰かが私に反対すると、「え? 反対なの? 困ったなあ。めんどうだから、反対派も賛成派もみんなまとめて顔が立つような手ってない?」と発想するのである。
私が「ま、アラファトさんにもお立場というものがあるわな。かといってシャロンさんも、このままでは引っ込みがつかんわな。じゃ、ナカとって」路線の信奉者であるのは、要するに、正しい間違っているという議論は棚上げしても、「ネゴシエーションができる対話の回路さえ確保しておけば、あとはビジネスライクな詰めでなんとかなる」と思っているからである。
だってそうでしょ。
戦争とかそういう場合であると、急がないと、意地張り合っているうちに、どんどん人が死んでしまう。
問題は、正しさと人の命とどっちが大事か、ということである。
私は人の命の方が大事だと思う。(「人の命」なんてきれいごとはやめてもいい。「私の命」もそこに入るんだから。)
正義の戦いで殺される人間を一人でも少なくする方法は一つしかない。
とにかく「急ぐ」ことである。

先日、国会の党首討論で、小泉さんが医療保険の問題で、「受診者も医療者も保険者も、みんなちょっとずつ損する、ということでいいじゃないですか」という論法を展開して鳩山さんを困らせていた。私はそれを聞きながら「あ、この人もイラチなんだ」と思った。
国民皆保険制度を守るという水準と、関与者のうちの誰の言い分がもっともかという水準は階層が違う。小泉さんは階層の高い問題を優先するんだから、細かいことはどうでもいいじゃないかという乱暴な総括をしていた。
この論件においてそれが賢明な対応であったのかどうか、私には分からないが、小泉さんを駆り立てている「気分」はたいへんによく分かった。
彼もまた「結果を急ぐ人」なのである。
「結果を急ぐ人」は正論には興味を示さない。

私は「ためらう」人間であるが、それは私が「せっかち」だからである。
困った問題に遭遇したとき、「ベスト」の解決策が何であるか議論するより、「ファーステスト」の解決策が何であるかを探すのが私の風儀である。
ただ、誤解してもらってはこまるが、私の拙速主義はジョージ・ブッシュ風の単純主義とはまったく別物である。
私は「話を早くしたい」だけであって、「話を簡単にしたい」わけではない。
私の経験は「話を複雑にする方が、話が早い場合がある」ということを教えてくれる。
というのは、すばやい調停が成功するためには、「対立者をも含めて代表するような」水準を探り当て、そこにおける「名誉ある共存」を保証しなくてはならないからだ。
この場合、異論の対立を無害化する唯一の方法は、「あらゆる異論を併記すること、いちどでも口にされたことは記録すること、すべての議論が同時に対立し合い、背馳し合い、矛盾し合いながら、なお共存できるような語りの境位を創出すること」であると私は信じている。
このような「異質なるものが、背馳し合いつつ共存し、対話しうる境位」、それが「ためらい」という語に私が託している語義である。

私がこれほど断定的に言えるのはこれが私の独創ではないからである。
私が偉そうに断言するすべての場合と同じくこれはレヴィナス老師の教えである。
レヴィナス老師もまたたいへんな「イラチ」であった。
だって、当然でしょ?
世界の成り立ちと人間のあるべき生き方について世界中の人間が納得できる理説を説いてきかせましょうというような壮大かつ緊急の課題を抱えている哲学者が「急いで」なくてどうします。
おそらくそれゆえにレヴィナス先生は向けられた批判についに一度も「反論」ということをしなかった。
めんどくさいからではない。(多少はそうだが)
「レヴィナスへの反論込みでのレヴィナス思想」という境位を老師は想定されており、自身のテクストもまた「その境位」において読まれることを望まれていたからである。そこにおいて、自身のテクストがその豊かさと厚みを一層輝かせることを熟知されていたからである。

というような話を大西さんが帰ったあとで思いついた。
いつもそうなのである。
そのときじっくり考えて答えればいいものを、つい「せいて」事をし損じるのである。
これが「イラチ」であることの最大の問題点だな。

ためらいの倫理学

などと言うことを考えていたら、せりか書房から『レヴィナスと愛の現象学』の試し刷りが二部届く。
美しい。
装幀の山本画伯の力作である。
書店に並ぶのは12日頃とのこと。
おそらく書評では酷評されるであろうが、私はそれを受け容れるつもりである。
「こういう主題でこういう風に書くのはルール違反だ」という批判は正しいからだ。
私は「禁じ手」を使って本を書いた。だから、これについては「こんなことをしでかして、若い研究者がこれからあんたの手口を真似をしたらどうするんだ」という非難が浴びせられたら私はおとなしく「すまない」と頭を下げる。(もちろん、例のごとく、ぜんぜん反省はしていないが。)
そのような節度ある「学術スタイル」がスタンダードとしてあるからこそ、こういう禁じ手で書くことに戦略的な意味があるわけである。
やはり業界的には「こういう本は書いちゃだめ」ということで衆議一決して頂きたいと思う。
そうすれば、この種の本では、私のものが空前絶後ということになるからね。

ご同業、ご同輩のみなさまのお手元にはいずれ献本が届きますので、焦って購入しないようにお気をつけ下さい。もちろん焦って購入して、献本分は誰かにプレゼントするというような雅量を発揮されるのもクリスマスらしくつきづきしいことではございますが。