12月5日

2001-12-05 mercredi

大学院のゼミは「中村天風」先生がテーマ。
天風先生は私の師匠の多田宏先生のさらにお師匠さまであるから、ウチダは天風先生の「孫弟子」に当たる。
この偉大な「啓蒙家」の事績については、多くの書物が書かれているので、私が付け加えることは何もない。でも一つだけ。

天風先生の教えの中に七つの「勿れ」というものがある。

「怒るな、恐れるな、悲しむな、憎むな、妬むな、悪口を言うな(言われても言い返すな)、取り越し苦労をするな」

これは天風先生の教えの基本である。
だが、「基本」というものがたいていの場合がそうであるように、これは同時に「極意」でもある。
基本は極意。これはどんな技芸の体系でも変わらない。
基本が出来る、ということは、すべてが出来るということである。
天風先生が門人に与えた「怒るな・・・」以下の七つの禁戒は、基本の戒律であり、それがきちんと出来れば「人間として完成した」ということを意味している。
だから基本「から始める」というのは、ほんとうは不可能なのである。
天風先生の本を読んで「よーし、明日から怒らないぞ」と決意しても、そんなの無理である。
たしかに「怒るのを我慢する」ことはできる。
しかし、我慢というのは、その怒りのエネルギーを貯め込むだけのことである。
怒りの爆発を先延ばしにするだけである。
結局、いつかはどこかで誰かに対して、その怒りのエネルギーを爆発させることになる。
「怒らない」というのは、そもそも「怒るのを我慢する」必要さえない状態に達する、ということである。自分のうちに怒りの感情も怒りの必要も感じなくなる、ということである。
これはむずかしいよ。
「怒るのを我慢する」のなら誰にもできるが、「怒らない」のは誰にもできることではない。
だから極意だ、と申し上げているのである。

昨日の晩寝ながら読んだ田口ランディさんの『できればムカつきずに生きたい』の中にこれと呼応する言葉があった。

「二十代の頃、私は攻撃的な人間だった。
 竹を割ったような性格で物事をはっきり言う。そういう奴だった。今でももちろんそうである。嫌な事は嫌と言うし、間違っていると思った事は間違っていると言う。
 ただし、今はニコニコしながら『イヤなんだけどなー』と言う。それはなるべく相手と対立しないためにだ。『ごめんね』とあやまりながら『イヤ』と言う。だけど昔は違った。怒って『イヤだ』と主張した。強くイヤだと主張した。なにかこう怒りのパワーにまかせて『イヤだ』って言わないと、『イヤだ』って主張できなかったからだ。
 なぜだろう。私は主張する時、いつも怒りのパワーが必要だった。自分を主張する時になぜか怒っていないと力が出なかった。」

「怒らない」のがなぜむずかしいかというと、ランディさんも書いているように、怒りというのが、非力な人間が自己主張し、自己実現するときに、不可欠の力のエネルギー源だからである。
若いというのは要するに非力である、ということである。
小さな声で、「私、それは違うと思うけど・・・」みたいなことをつぶやいても、誰も、誰一人耳を傾けてくれない、というのが「若い」という状況である。
仕方がないよね。
だって、その人が他の人間には見えていないことを見通していて、事態について他の人よりも正確な判断を下しているという「データ」をまわりの人たちは持っていないんだから。
同じような判断のむずかしい状況に何度か遭遇し、そのときその人が下した状況判断や、戦略的展望が「結果的に正しかった」ということが確認された人についてのみ、私たちはその人の「主張」に耳を傾けるようになる。
当然のことだ。
若いということは、単純に、「高い確率で判断が正しかった」という事実の蓄積がない、ということである。だって生きている時間が短いんだから、仕方がない。
だから、たいへん気の毒なことではあるが、子どもがどれほど正しいことを言っても、まわりの人たちはその主張にほとんど配慮しない。
「はいはい、そーでちゅか」と子どもをあやしておいて「じゃ、こっちははやく話をきめようぜ」と子どもを置き去りにしてものごとが決まって行く。
それを指をくわえて眺めるしかないというのが「子どもであること」、「若いということ」、「非力であること」の哀しさである。

それでも自分の主張の正しさを認めさせようと思ったら、もう「怒る」しかない。
ばしっと机を叩いて「いいから、俺の言うことを聴けよ!」と怒鳴りつけるしかない。
怒る以外に手段がないのである。
怒りのエネルギーだけが、そのパセティックな「捨て身」の構えだけが、周囲の人間のおしゃべりを一時的に鎮め、そのときだけ、聴衆の注視を確保することができる。

「三下が口をはさむんじゃねえ! すっこんでろい!」
「ま、いいじゃねえか、マサ。おう、若いの、なんか言いてえことがあるんなら、言ってみな」

というような状況になるわけである。
そのような怒りのパワーによってとりあえず緊急避難的に与えられた一回だけの「聞き届けられる」チャンスを確実にものにして、
「なるほど、この若いの、なかなかいいこと言うじゃねえか」
的にその判断力を「信認」されることによって、子どもたちはラッチ一つ分だけ「大人」になる。
その発言が適切であったことが結果的に承認されれば、次の機会には、前ほどはげしく怒鳴らなくても、前ほど捨て身で他人の話に割り込まなくても、人々はその人の発言を促し、その言葉に耳を傾けるようになるだろう。
そのような小さな努力を積み重ねてゆく以外に、「怒らなくても意見を聞いて貰え」「怒らなくても立場を配慮され」「怒らなくても尊敬される」ポジションに私たちはたどり着くことができない。
「怒るな」と天風先生がおっしゃっているのは、そのようなポジションに到達せよ、ということであって、単に「怒るのを我慢せよ」ということではない。私はそう解釈している。

「自分が弱いことを受け容れましょう」というセラピストが最近は多い。
学校なんか行かなくていいですよ。仕事なんかつらければやめなさい。いやなら別れちゃいなさ。子どもが可愛くなくっても気にしない。親を憎むの人なんてたくさんいます。家族なんて解体しちゃえばいいんですよ・・・
こういうしたり顔のアドバイスをするセラピストが山のようにいる。
この指摘が、「あなたは幼く、弱く、誰からも相手にされないほどに非力な人間である、その事実を認めなさい」という「弱さ」の客観的評価にとどまるのなら、このアドバイスは間違っていない。
しかし、その意味を「あなたは弱い。弱い人間であることを恥じることはない。その弱さを受け容れ、その状態に満足しなさい」というふうに解釈するなら、このアドバイスはまっすぐ地獄への道を指し示している。
弱さを認めるのは、強くなるためである。
それ以外に弱さを認めることにはどんなメリットもない。
思い切り泣きなさいとか、思い切り声を上げて怒りなさいとか、思い切りわがままを言いなさい、いう類のアドバイスは、要するに「あなたは子どもであり、非力であり、敬意を払われるだけの価値のない存在であるから、そうでもしない限り、誰一人あなたを見向きもしないだろう」と言っているにすぎない。
怒鳴りわめかない限り、誰もあなたの言葉を聞いてくれないし、あなたの存在になにがしかの意味があることを見てもくれない。だから、しかたがない、怒鳴ってもいい、泣き叫んでもいい、と言っているのである。
ただし、怒鳴ったり、泣き叫んだりして確保した発言のチャンスにおいて、「自分が耳を傾けるに足るだけの知見を語る人間であること」を証明してみせなければ、その怒りや悲しみはドブに捨てたのと同じである。
泣いたり、わめいたり、怒鳴ったり、総じて「自分の弱さを担保にして」発言する人間は、その発言機会がぎりぎりのワンチャンスであるということをわきまえたほうがいい。
そこで一回しくじると、この次はもっと大声で怒鳴り、もっとじたばたぐずってみせないと、誰も話を聞いてくれない。聞いてもらえたとしても、その注視は一片の敬意も含まない、「なんだ、また始まったぜ。めんどくせー野郎だな。はいはい、そーでちゅか。ふーん、たいへんなんでちゅねー」的な見下しをすでに含んでしまっている。
ある年齢を過ぎたあとに、一度「見下され」てしまうと、もうその状態から這い出ることは困難である。ほとんど絶望的に困難である。
自分は弱い、しかしその弱さを自分は許さない、そう決意している人間だけしか、弱さから抜け出すことができない。
弱さに安住している人間は、永遠に泣き続け、わめき続け、怒鳴り続け、怖れ続け、憎み続け、妬み続ける他ない。

怒るな。
これが天風先生の第一の教えである。
それは、その人が口を開こうと小さく息つぎをしたとたんに、その場が水を打ったように静まり返り、全員が期待を込めてその人をみつめるような、そのような言葉を語る人間になれということを意味している。
きびしい要請だ。
それは場を制圧する力だけではなく、ひとを浮き立たせる暖かみと、曇りを払う叡智を備えた人にしか訪れない事況である。
しかし、天風先生が「心身統一」とおっしゃっているのは、そのような人間的境位のことである。呼吸法をしたり、瞑想をしたり、あれこれの術を遣ってみせることは心身統一のための技術的な迂回路に過ぎない。
人間の生き方の根本にかかわるすべてのものは、コミュニケーションの水準で到成される。
だから、天風先生の七戒のすべては「他者と向き合うしかた」にかかわる教えなのである。