『ミーツ』の江さんと三宮で打ち合わせ。
最初は湊川の居酒屋「丸萬」。
「街のひと」江さんのご案内であるから、美味しいものが食べられるのは保証付き。
「鯛の子」や「小蛸」などをつまみに、来月号から始まる連載のゲラを見せて頂く。
挿し絵はアジサカコウジさん。4コママンガだったらいいなと思っていたら、期待通り4コマ。これが面白い。私の本文よりずっと面白い。
来月以降のネタについてひとしきりご相談したあと、河岸を替えて北野の「ジャック・メイヨール」へ。
ここはギエムさま公演で奇遇の橘さんのお店である。
安藤忠雄設計の「ローズガーデン」という不思議なビル(エッシャーの「階段」みたいな建物だよ)のペントハウスにある。
温室みたいに植物でいっぱいのすてきなお店である。
私はまったく非活動的な人間であって、仕事のある日は家と大学を往復するだけであり、休日は家から一歩も出ない。
三宮に出て買い物をするのがせいぜい月に一度。
外にご飯を食べに行くのもまず月に一度。
だから、「お洒落なワインバー」で神戸の夜景を見ながらバーのマスターと清談するというような時間の過ごし方は私の日常には含まれていない。
なんだか、どきどきしてしまう。
お近くの「グリルみやこ」のシェフがカウンターのお隣に坐ったので、さっそくフランス料理におけるフォンとジュの違いについて、ドミグラス・ソースの起源と不思議な運命について、興味深いお話をうかがう。(いつも書いているとおり、私は異業種の人から専門的な話をうかがうのが大好きなのである。)
さらに橘さんに注がれるままに冷たい白ワインをがぶがぶ飲み、品のいいバーボンのソーダ割もばりばりお代わりして江さんとおしゃべりしているうちに、北野の夜は静かにふけてゆくのでありました。
翌日はさすがに二日酔い。
一度起きて朝御飯を食べたけれど、お腹がいっぱいになったらまた眠くなったので、二度寝。(「朝御飯を食べたあと、二度寝に落ち込むときの墜落感」は他をもっては代え難い自堕落な快感をもたらす。)
昼近くにのそのそ起き出して、ぬるいお風呂に入って、アルコールを飛ばす。
コーヒーを呑みながらメールチェック。またウイルスが発生している。
nifty のウイルスバスターのチェックをのがれて入り込んで来るらしい。
しかたがないのでウイルスバスターの最新版をダウンロードしてウイルス駆除。
ダウンロードに時間がかかるので、そのあいだ、映画論のためにラカンの『セミネール』を読む。
岩波から出ているこの『セミネール』は『エクリ』に比べると訳が非常に分かりやすい。それだけ受け容れる側のラカン理解がこなれてきたということだろう。
なるほどなるほどとうなずき、赤鉛筆で頁を真っ赤にしながら読み進む。
なんだ、ラカンの言ってることって、「ふつう」じゃん。俺も前からそう思ってたわけよ。
というような図々しいリアクションができるのは、ラカンの理説が私たちの社会常識の中にそれほどまでに浸透してきた、ということである。
前にも書いたけど、ポスト構造主義の時代というのは、構造主義的な知見が古びてしまって使えなくなった時代ではなく、構造主義的知見が十分に常識のなかに浸透したために、もう改めてフーコーやレヴィ=ストロースを読んで「勉強」する必要がなくなった時代、ということである。
ただ構造主義のもっとも革命的なアイディアについてはまだ十分に理解が届いているとは思わない。
それは「人間の本性はパスすることにある」という考想である。
このアイディアはレヴィ=ストロースとラカンにおいて際立っている。
レヴィ=ストロースはそれを「コミュニケーション」と呼び、ラカンは「転移」と呼んでいる。
ダウンロードが終わってパソコンが空いたので、『ミーツ』の来月号の原稿を書き上げる。「村上春樹とハードボイルド・イーヴィル・ランド」という題。
しかし、なんだかこれはアジサカさんが四コママンガをつけにくそうな内容なので、「マンガはえらい」という題でもう一本書く。
『文春』の12月号で曾野綾子が「漫画しか読めない子どもを作った親と学校は恥るべきだ」と書いていたのを読んで「かっちーん」ときたのである。
うちの娘は「マンガしか読まない」が私はそのことを少しも恥ずかしく思っていない。
日本マンガはなぜ「えらい」のか。
それについて持説をがりがり書く。
がりがり。
(2001-12-04 00:00)