組合の臨時総会がある。学内某重大事件への組合としての取り組みについて議論する。
私の「仕事」は例によって「突撃隊長」である。(今回は、山本先生が最初に「きつーい」のを入れたので、私は二番隊)
私がぎゃあぎゃあがなり立てて、なんとなく反論しにく雰囲気をつくっておいてから、「長老」が登場して、「まあまあ、お若いの。そういきりたたんと。どうかね、皆さん、こういうはねっかえりな意見もあることだし、ナカとって・・・」と落とし所を探るのである。
こういうのはもう「阿吽の呼吸」という他ないのだが、それにしても「ウチダがアオって、ワルモノがサバく」というこの予定調和的な進行にウチダはいささか不満である。
だって、これだと私はただの「わがままな、うるさいやつ」である。(事実そうだけど)
総会のあとも、なんとなくみんなの目が冷たい。
「ウチダって、ほんと、やなヤツね」という批判的視線を背中に感じる。
私だって、ほんとうは「まあまあ、そういきりたたんと。たまには老人の言うこともお聞きよ」というような余裕のサバキをしてみたい。
とはいえ、ワルモノ先生はサバキの責任をとって、調査委員という重責を負うことになった。
アオリの罪は「白眼視」として、サバキの責任は「さらなる責務」として、それぞれに重くのしかかるのでありました。
ワルモノ先生の健闘を祈る。
ゼミが二つ。
午前中はウッキーが「人間はなぜロボットをつくるのか?」という興味深い論題を振ってくれた。
私の解釈は、「人間とは何かを知るため」である。
ゴーレム、フランケンシュタインから『メトロポリス』、『ブレードランナー』、『ターミネイター』のアンドロイドたち、そしてわが鉄腕アトムに至るすべての人造人間は、人間たちが作ったものでありながら、必ず人間たちと確執する。それは彼らが人間性の「一面」だけを拡大したものだからだ。
アトムは人間の限りない善性を、あとの諸君はどちらかというと人間性の暗部を拡大しする場合が多い。
けれども、どちらも人間そのものではない。
人間は天使的なところと悪魔的なところを併せ持っているからだ。(あ、そういう意味では『ターミネイター』は1、2で悪魔と天使を演じ分けたわけか。なるほど。)
どちらにしても、一体のロボットには、その二つの要素は「同時」には決して共存できない。「たいへん善良」であるか「たいへん邪悪」であるか、いっときにはどちらか一方でしかありえない。
あらゆる物語の意味は「逆に読まないと分からない」というのがニーチェの卓見である。
「非人間的なもの」を造型する目的は「人間的なもの」とは何かを知るためである。
「不死」の不幸を描くのは、「死ぬことの至福」を語るためである。
「性のない人間」を描くのは、「性」とは何かを知るためである。
午後のゼミは「ウミガメ」について。
たしか私のゼミは「現代文化論」だったはずだが・・・
なぜウミガメかというと、そのゼミ生がこの夏メキシコの海岸で「ウミガメの産卵を介助するボランティア」に行ってたからである。
夜の太平洋岸に横になって、ウミガメがとことこ上陸してきて産卵するのをじっと見てから、穴から卵を掘り出して、「養育所」のようなところに移す仕事だそうである。それを数週間毎晩やるのである。
そうやって卵を守らないと、他の動物に捕食されたり、人間に掘り出されて食べられてしまうからである。
というわけで、ウミガメの生態について、みんなでお話をうかがう。たいへんに面白くかつ有意義なお話であった。
うちのゼミは不思議な人ばかりだ。
このゼミは「公開授業」だったが、誰も聞きに来なかった。
来られてもちょっと説明に困るけど。
(2001-11-20 00:00)