ひょうご講座の「構造主義:以前と以後」のノートを書き続ける。
昨日からずっと書き続けなので、肩がばりばりに凝ってしまった。
ようやくラカンまで書き終わったけど、読み上げたら3時間くらいになりそうな分量なので、実際の講座ではソシュールだけで話が終わりそうである。(せっかく久しぶりにフーコーやアルチュセールまで読み返したのに)
それにしても90分の講義のためにもう30時間くらいノート作りをしている。
でもきっと講義は「早口で何言ってるんだか、わかんなかった」とか言われるんだろうな。
でもおかげで、マルクスからラカンまでの「つながりぐあい」がウチダ的には整理ができた。
問題は「整理する」ことがいいことかどうかだな。
「早い話が」というのが私のパフォーマンスの基本であるが、話は早くすればよいというものではない。
「早い話」をしながら、かつオープンエンドで謎は謎として残しておくというのは、むずかしい。
本を読むことのむずかしさは、ある程度「分かったつもり」で読まないとそもそも話にならないということと、「分かったつもり」で読むと、自分のフレームワークではとらえきれない深い部分を見落としてしまうということのバランスを取ることである。
「分かっちゃいるけど、分からない」という理解のあり方を伝えるのはほんとうにむずかしい。それは要するに、自分の「頭の悪さ」をできる限り正確に、かつ雄弁に語るということに等しい。
でもね、「自分の頭の悪さ」を正確かつ雄弁に語るのは大変だよ。
だって、そうでしょ。「自分の頭の悪さを正確かつ雄弁に語ることが出来る」というかたちでたちまちそれは権能の語法に転化しちゃうんだから。
私はこのように自分の知性の不能を言語化できるんだ、偉いだろ、というのはマナーとして最低だ。(だって不敗の語法じゃないか)
方法としては有効だろうけれど、マナーとしてはよろしくない。
ほんとうに大事なのはマナーだ。
これは原理原則があるわけではないから、むずかしい。
「読み手になんとなく信じられる」文体というものを探し出す他ない。
たぶん、その人の人間性の厚み以外に頼るものがない。
だけど、私にはどう考えても、他人に信頼されるような人間性の厚みなんかないしね。(だって、私はほんとうに「やな奴」なんだから)
困る。
ろくでもない人間が、偉そうなことを言いたいという本質的な矛盾に逢着しているわけですよ。
でも「ろくでもない人間でも、偉そうなことを言いたい」というところに人間性の希望はあるんではないかしら。たぶん。
ややこしい話ですまない。
鈴木晶先生が『文芸春秋』の「同級生交歓」に四方田犬彦さんといっしょに出ていると聞いて、さっそく書店で買い求める。
いいなあ。
文春の「同級生交歓」に出るのは、私の小学校時代の夢だった。現に、中学校の卒業文集の「将来の夢」というところに「『文芸春秋』の「同級生交歓」に出ること」と書いたくらいである。
私も出たい。
相方はもちろん大田区立東調布第三小学校の同級生、平川克美君である。
日比谷や東大の同期だと著名人が多すぎて文春のグラビア一頁にはとても収まらない。(それに、文春にオッファーされたやつが私のことを忘れている可能性もある。これは悔しいだろうな。)
来年の目標はそれにしておこう。
鈴木先生のホームページを見ると、せりか書房の船橋さんと「ふぐ」などを食べているらしい。船橋さんは私には「はやく校正してください」と言うだけなのに。楽しそうでうらやましい。
そういえば、もうすぐ山本浩二画伯や難波江さんと「ほそかわでふぐを食べる会」のシーズンである。今年はせりかの装幀を画伯にお願いしたので、ふぐは私の奢りである。
ううう、ふぐ。
ドクター北之園と美々卯の「うどんすき」を食べる会というのもしばらくやっていないなあ。また行きたいなあ。うどんすき。
(2001-11-19 00:00)