11月16日

2001-11-16 vendredi

語学ゼミでマシュー・カソヴィッツと北野武の対談を読んでいる。(フランス語ね)
これがなかなか面白い。
だいたい、日本人が外国のインタビュアーに質問されて答えるときは、あまりごちゃごちゃいわないで、わりとストレートにものを言う。(英語やフランス語だと、主語、目的語をはっきりさせた文型で語ることを強いられるからである。)
その中で北野武が自分の方法として、「図像で断片だけ呈示して、あとは観客に考えさせる」「それによって観客自身に物語を作らせる」と言明していた。
おお、やはりね。
「観客に自分で話を作らせる」という方法は狙いとしてはたいへんに正しいと私は思う。
おそらく、そのせいで日本では北野作品はあまり客が入らないのだろう。(観客に知的負荷を与えるわけだから。)
しかし、この方法のよいところは、「人間は自分で作った話は、どれほどでたらめな話でも頭から信じ込む」という心理の弱点を衝いている点である。
私たちは他人の語る理路整然とした話より、自分で作ったデタラメ話の方を信じる。
必ず信じる。
だって、それこそ「私が聞きたかった話」だからである。
チャールズ・ダーウィンの名言に「研究者は自分にとって都合の悪いデータを記憶できない」というものがある。(ダーウィンはそれゆえ、自説と背馳するデータは必ずノートに記録した。)
逆に言えば、私たちは「自分が聞きたい話だけを選択的に聞く」。
それをさらに進めれば、「適当な断片を与えられれば、私たちは必ずそれを素材にして、自分が聞きたい話を作り出す」ということになる。
つまり北野作品は「何がいいたいのかよく分からない」映画なのであるが、それゆえ、観客はそこに「自分の好きな物語」を読み込むことができるのである。
つまり理想的には、全観客にとって、北野武の映画は「自分の好きな映画」になるという仕掛けである。(なかなか理想通りにはゆきませんが)
それにしても、何というサービス精神であろう。
万人に「自分の好きな物語」を提供しようというのである。
これをほんとうの「芸人根性」というのであろう。
たけしくんは偉い。

F田くんが修論の相談にやってくる。そろそろそういう季節である。
今年は三人の修論の主査をしている。テーマは手塚治虫とバレエと平家物語。(いったい何の専門なんだ、私は)
手塚治虫論は「鼻の大きな男=手塚治虫=母」という領域横断垂直統合型の図式をウッキーと二人で車のなかでしゃべっているときに思いついた。これで結論まで行けそうである。
平家物語論はK中先生が実質的な主査なので、私は気楽である。
バレエは鈴木晶先生に専門的アドバイスをお願いしたのだが、その後、F田くんは沈没したまま浮上してこない。昨日はひさしぶりに顔を出したが、とっかかりが分からないと言う。
思いつくままに、1970年以降の脱中心化、非人間化、性差の解消、デジタル化、といったパラダイムシフトの趨勢とコレオグラフィーのあいだには深い関係がある。
とりわけ、人間存在を機械とか装置とかサイボーグとかいうメタファーで語る語法が流行した。それがシルヴィ・ギエムの奇形的ターンアウトを美的達成とみなす審美的風土を生み出したのではないか、というでたらめ話をする。
しかし、いま思いついた話なので、すっかり気に入る。
今月末、神戸にそのギエムが来て『ボレロ』をやる。F田くんといっしょに見に行くことになった。私ははじめて見る。どきどき。
たぶんギエムを見たあと、「分かった! いま、すべての円環が音を立てて繋がった!」と私は叫ぶのであろう。どうせ。