11月12日

2001-11-12 lundi

終日原稿書き。レヴィナス論の校正が終わったので、宅急便で送る。奥付を見たら、2001年12月15日発行となっている。あと1月でほんとに出るんだろうか。

引き続き、さ来週の「ひょうご講座」のノート作り。
これは兵庫県が主宰しているカルチャーセンターみたいなものらしく、今期のテーマは独仏中心のヨーロッパ近代文化史。私の担当は「構造主義の以前と以後」。
聴講生のみなさんはリタイアしたあとの悠々自適のシルバー世代らしい。
すでにドイツ文学で講義をされたM先生に「どんな感じですか」とお聞きしたら、たいへんまじめに聴講されているけれど、文学史や思想史についての予備知識は「ないもの」と想定してお話ししたほうがいい、というアドバイスであった。
思想史についての予備知識が「ない」人たちを相手に90分間で構造主義についてそれなりに「うむ、分かった」というところまでご理解頂くというのはなかなか大仕事である。どこから始めたものかね。
定番ではソシュールから説き起こす決まりであるが、『一般言語学講義』の引用から始めたのでは、たちまち全員眠り込んでしまうであろうから、そういう正攻法は無理だ。
「つかみ」はやはりアフガン空爆だな。
アフガン空爆についての連日の報道にまじって、必ず見られるのが「いま爆撃を受けているアフガンの罪のない市民たちの痛みに想像力を届かせて下さい」という訴えである。
それを読んで、「もっともなことだ」、と私たちは思う。
しかし、私たちが忘れているのは、こういう投書を読んで「もっともなことだ」と思うようになったのは、実はものすごく最近のことだ、ということである。

同一の事象が、見る人が違うと別の風景に見えるということが「常識」として受容されるようになったのは、実はごくごく最近になってからなのである。
もちろん、その前にもそう訴えていた人はいた。ギリシャ以来山のようにいた。
けれども、ふつうの生活者たちは誰もそんなことを本気では取り合わなかったのである。
それが今は小学生でさえもが、「アフガニスタンの人たちは情報を遮断されていて、WTCのテロの映像さえ見てないんだから、どうして空爆されるのかそのの意味が分からないでいる」ということを知っている。
メディア・リテラシーの違い、産業構造の違い、国民所得の違い、宗教の違い、国民国家の形成のされかたの違い、そういったものによって、それぞれの社会集団の「世界観」はまったく違うものになっている。そして、それはある「標準」からの偏差であるのではなく、どこにも「標準」なんか存在しないということ、アメリカ人が「グローバル・スタンダード」と呼ぶものは他の国から見れば「民族誌的偏見」にすぎないということ、そういうことをいまでは気の利いた中学生なら誰でも「知っている」。
しかし、これが「中学生も知ってる常識」になったのは、せいぜいこの30年のことなのである。

「あらゆる社会集団は自分の判断の客観性を過大評価する」と看破したのはレヴィ=ストロースである。
『野生の思考』の最終章で、レヴィ=ストロースはジャン=ポール・サルトルの『弁証法的理性批判』を取り上げ、その書物がヨーロッパのある社会の、ある社会階級に属する知識人に固有の偏見を無反省的に吐露したものであり、「この時代の知識人の頭の内容を知る上での一級の民族誌的資料」ではあるが、人間一般について妥当するような真理を語っているものではないと言い切った。
それが1962年のことである。
レヴィ=ストロースのこのサルトル批判はまさに思想史上における「青天の霹靂」であった。私はそのときリアルタイムで「ひとつのパラダイムが壊れてゆく」風景を、「実存主義の王朝」が瓦解してゆくさまを目の当たりにしたのである。

「アメリカ人の目に見える国際政治の風景は、ベトナム人の目から見えるそれとは違う」という平明な事実がひろく受け容れられるようになったのは、それからしばらくしてからのことである。
例えば、『野生の思考』の出版の20年前まで、「中国人から見える満州の風景は、日本人の目から見えるそれとは違う」ということを事実として知っていた人間はいくらもいた。けれども、それを知的誠実さの証として、メディアを通じて主題的に展開したり、国際政治の方向転換の論拠として提言した人間はいなかった。(いたかもしれないけれど、みんな特高につかまってしまった。)
『野生の思考』より5年前にも「アルジェリア人の目から見えるアルジェリアの風景と、フランス人の目から見えるそれは違う」ということを事実として知っていたフランス人はいくらもいた。けれども、それを適切な仕方で語った人間はいなかった。(サルトルはアルジェリアについて多くを語ったけれど、要するに「アルジェリア人の目から見えるアルジェリアの風景こそ真実の風景だ」と言ったにすぎない。それはただ視点を「こっちからあっちに」移しただけで、ある特権的に視点に立てば一望俯瞰的な客観的眺望が得られるという信憑は維持されたのである。)

私たちの視野に映じているものは、誰の視点から見ようと、すべて「民族誌的偏見」によって(あるいはイデオロギーによって、あるいは無意識によって、あるいは言説編成によって、あるいは記号の神話作用によって)選択的に「見させられているもの」である、ということを「常識」にしてくれたのは、レヴィ=ストロース、ラカン、フーコー、バルトら構造主義者たちの功績である。
この構造主義的知見がいまや私たちの常識となっている。
ある特定の思想史的条件のもとに発生した特殊なものの見方、考え方が、いまでは、ふつうの中学生にとっても「自明」なものと映じている。いまの子どもたちはレヴィ=ストロースもラカンも読まないが、彼らが言おうとしたことを「知っている」。
それがある思想が「ドミナントなもの」になる、ということの意味である。
そのような意味で私たちはいま「ポスト構造主義の時代」にいる。
「ポスト構造主義時代」とは構造主義が「もう古くなった」時代という意味ではなく、構造主義的知見が「常識」として共有されてしまったので、もう「勉強する」必要がなくなった時代という意味なのである。

いうような話を「つかみ」にして進めて行く予定なのであるが、なんだか「つかみ」だけで半分くらい終わっていそうだな。

アフガンついでということでツタヤに行って『ランボー III 怒りのアフガン』を借りてくる。
もちろん今のアメリカでは『怒りのアフガン』は発禁状態だろう。シルべスター・スタローン自身も自分のフィルモグラフィーから削除しているかもしれない。
わずか18年前にレーガン大統領以下の愛国的市民が万雷の拍手を送った映画がいまやハリウッドの「恥部」である。
娯楽映画が経験した運命の激変としては、これは例外的なものといってよいだろう。
(あ、見てない人のために説明しますけど、これはソ連軍がアフガニスタンに進攻したとき、それに死力を尽くして抵抗するアフガン・ゲリラ(聖なる戦士たち、ね)とジョン・ランボーが「侠気」で結ばれて共闘するという反ソ、親アフガンのプロパガンダ映画なの。)
大笑いなのは、ソ連軍につかまったリチャード・クレンナの「大佐」が、拷問するソ連軍の士官にむかって「アフガンにいくら大軍を投入しても、君たちは決して勝てないよ。アフガンの戦士たちは死を恐れない。死を恐れない戦士たちの前に近代の軍隊は無力だ。私たちはそれをベトナムで学んだ。」という大演説をぶつところ。
『怒りのアフガン』をいまのアメリカでゴールデンアワーに放映したら、アメリカ人はどう反応するだろう。
この映画の中でランボーがソ連兵を虐殺してまわるときに、当時のアメリカの観客は狂喜して喝采を送った。そのソ連兵の役割をいまアメリカ兵が引き継いでいる。
この映画を、ソ連兵をアメリカ兵に入れ替えて見ることのできる想像力がいまのアメリカ市民には必要だろう。
そして、そのときはじめて、自分たちに向けられている憎悪がどのような種類のものであるかを、アメリカの観客たちはかつて自分たちがこの映画の中のソ連兵に向けた憎悪を想起することで実感できるはずである。
その意味では実に「啓蒙的」な映画である。
「『ランボーIII 怒りのアフガン』をアメリカのTVで放映させる運動」というのを誰か提唱しないかしら。
『ニューヨーク・タイムズ』に反戦広告出すより、アメリカ人の好戦気分に対する「冷や水」としては効果的だと思うけど。
(なんてことを書いて朝起きたらニューヨークでまた飛行機が墜落していた。なんだか「泥沼」化してきたみたいである。)