快晴。洗濯、掃除、アイロンかけをしてからレヴィナス論の校正に取りかかる。
読んでいて意味が通らない箇所が散見される。
たぶん書いているときは頭の中の思考回路では通電していたのだろうが、時間がたったので、その回路が切れてしまって、あるパラグラフから次のパラグラフに「だから」で繋がる理由が書いた本人にも分からない。
しかたがないので、「そのときの自分」に戻るべく「感情移入」を試みる。
フッサール論を書いている今年3月ころのときの私の頭の中身というのは、フッサール風に言うと「私の自我の志向的変容態」である。
そのときの私の頭の中身はいまの私には間接的、想起的にしか与えられない。
つまり過去の私の意識というのは、いまの私からすれば定義上「他我」ということになる。
「他我」とは言い条、まあ「他人」である。
校正するというのは、いわば仮想的に、「他人」になって、その思考の道筋をたどり直す作業である。
私は原稿を書くのも好きだが、自分の書いたものを校正するのも好きである。
それはたぶん、「他人になって、考える」という仕事が私の性に合っているからであろうと思う。
世の中の多くのひとが勘違いしていることの一つは、ものを書くというのが「自分の中にあって、いまだ言葉にならない思いを言葉にすること」だと考えていることである。
これは小学校の国語の時間に刷り込まれた嘘である。
ものを書くというのは、「自分以外の何かにペンを仮託する」ということである。
「ミューズ」でも「ダイモン」でも「霊感」でも「エクリチュール」でも「大文字の他者」でも、好きに呼んでもらって構わないのであるが、どちらにせよ私の中で語っているのは「自分以外の何か」である。
書くとは、畢竟するところ降霊術である。
ただ、その「霊」にも位格というものがあって、バカにはバカの霊が、半可通には野狐の霊が、イナバの白兎の頭上には大黒さまが降霊するのである。
エクリチュールの霊が選択するのは、書き手という「導管」の「口径の差」である。
品格が高くスケールの大きい「ダイモン」は、導管の径が大きい精神に来臨する。セコい精神には、それなりのセコ霊が降りて来る。
だからもし書くことについての訓練というものがありうるとしたら、それは「導管の径をボアアップする」ということに尽きるだろう。
「ボアアップする」というのは要するに「びっくりする」ことである。
人間はびっくりするたびに精神の容量を拡大してゆく。
驚かない人間、感動できない人間、何を経験しても既存の感覚に還元してしまう人間、どんな異他的なものに触れてもそこに既知の意味しか見出せない人間、何に出会っても見慣れた風景を見てしまう人間・・・それは要するに「びっくりすることができない」人間である。
そのような精神は、外部から到来するものを受け容れることがない。
そして、その受容能力の欠如を「無知」と呼ぶのである。
「無知とは目詰まりしている精神のことである」(@ロラン・バルト)
(2001-11-11 00:00)