本学のセクハラ防止委員会から新しいガイドラインの改定案が送られてくる。
私は自己評価委員長なので、職責上コメントを求められたのである。
ガイドラインをつくったのはI田先生。
さまざまな事例を踏まえた網羅的なガイドラインであり、そのねらいは、調停や調査のために複数の審級を設けて、申立人と被申立人が話のはじめからいきなりガチンコの Win-Lose ゲームに巻き込まれてしまうことを防ごうというところにある。
教員と学生生徒のあいだのセクハラ問題は、公然化してしまうと、もう「退職」しかない。失業と家庭崩壊という苛烈な社会的サンクションが教員の側に課せられるだけに、セクハラ疑惑は逆にタブー化するおそれがある。管理者が事実関係を問わないまま不問に付したり、疑惑の教員が反省の色も示さず居直ったり、という逆効果も出かねない。(現に出ている。)
それを避けるために、今度のガイドラインは「懲戒」にデリケートなグラデーションをつけたのだろうと拝察する。
「それって、セクハラになりますよ」「あ、すみません。もうしません」という「訓告」のレヴェルでとりあえずの問題が回避されるなら、そのへんで手を打てるものは手を打った方が実質的だろう。賢明な考え方だと思う。
ただ、I田先生のご苦労を多としつつも、それでも何となく考え込んでしまった。
それはこのガイドラインに問題があるということではなく、、「セクシャル・ハラスメント」の「定義」そのもののはらむ問題についてである。
このガイドラインでは「セクシャル・ハラスメント」は「修学・就労の関係における、相手を不快にさせる性的な言動」というふうに定義されている。
おそらくそれが一般的な定義なのだろうけれど、この定義には何かが「足りない」気がするのだ。
英語のハラスメントという語は、フランス語の harassement から由来する。
原語の語義は「深い、極端な疲労」である。
もとの動詞は harasser。これは猟犬をけしかけるときの叫び声 harace から作られた言葉である。原義は「猟犬をけしかけること」。つまりハラスメントとは、本来は猟犬に追われた獲物が感じるであろう絶望的な疲労感を指すのである。だから、「ハラスメント」は広義には「強者が弱者を」「傷つけ、いたぶるために」「執拗に攻撃すること」を意味する。
ここには単に「相手を不快にさせること」というのでは足りない、もっと邪悪な意味が込められている。
それは何だろうと考えていたら、いちばん近い日本語を教えてもらった。
「呪い」である。
「呪い」というと大仰に聞こえるかも知れないけれど、田口ランディさんによると、それはごく日常的に行われていることだ。
「呪いというのは、口という字が入っているとおり、口で行う。もともと呪いは相手を縛ってがんじがらめにして生気を奪い取ることなのだそうだ。いかにもおどろおどろしいが、こんなことは誰でもやっている。特に、男と女の間、親と子の間でよく見かける。
(...) 呪いの特徴は、まず『意味不明の反復』に始まる。
呪いの言葉というのは明瞭ではおかしい。相手を縛るためにはまず不明瞭であることが重要なのだ。よって人は呪いをかけるために、不明瞭な反復を行う。理解不能だ。
なぜなら呪いは理解を嫌うからだ。理解されては呪いにならない。
『あなたのためだけを思っているのよ』『なにが気に入らないのかはっきり言ってよ』『おまえ俺をナメてんのか』『お願いだから私のことも分かって』『俺はお前のことだけを思ってやってるんだ』などは典型的な意味不明の呪いの言葉だ。この言葉を繰り返されても、相手は答えることができない。相手の答を封印しつつ、答えられない質問を繰り返すことで相手を呪いにかけているのだ。呪いの言葉をかけられた相手は沈黙するしかない。答えは最初から封印されているのだ。(...) 呪いの目的は相手を遠ざけるためではなく、相手を縛るためなのだ。呪いを操る者は必ず相手のそばにいる。」(『根をもつこと、翼をもつこと』)
私はこれを読んで胸を衝かれた。
コミュニケーションできない人間関係というのは、ほとんどの場合、そういうかたちで展開する。答えることのできない質問を執拗に受けるという仕方で沈黙を強いられるときの不快感と疲労感はうまく言葉では言えないものだが、あれは「呪い」をかけられていたのである。
「ハラスメント」というのも、おそらく本来は「それにきっぱりと答えきることのできない種類の問いかけや要求を、身近にいる人間から執拗に繰り返されることによって、生気を奪われ、深い疲労を覚えること」という事況を指していたのではないだろうか。
「呪い」を受けたものの徴候とは「生気を失うこと」であるという「呪い」の定義は「深い疲労」という「ハラスメント」の原義と通じている。
だとすれば、「セクシャル・ハラスメント」という言葉の本質的な定義は、やはり単に「性的に不快な言動」というだけでは足りないだろう。
「立場上はっきりと『ノー』と言うことが憚られるような身近な人から性的な誘いや性的ないやがらせを執拗に受ける」ことが「不快」であるほんとうの理由は、その曖昧で意味不明の執拗な「問いかけ」に答えることができずに沈黙を強いられることで、どんどん生気を失ってゆく「生命の枯渇」にあるのではないのだろうか。
逆に言えば、「性的いやがらせ」をする人間がほんとうに求めているのは、具体的な性的関係を取り結ぶことなんかではなくて、相手の生命力を萎えさせ、縛り付け、身動きできない状態にすること、「呪いをかけること」ではないのだろうか。
ランディさんはさらに「呪いの言葉」を列挙している。
「そんなことをしてたらあんたはきっとダメになる」「うまくいかなかったら戻ってくればいい」「そういうことじゃ病気は治らないよ」「あんたは何をやってもダメな人ね」「おまえは男運が悪いな」「そんなことじゃ誰も友だちになんかなってくれないよ」「将来ロクなことはないわよ」
これらはすべて効果的な「呪いの言葉」である。
それは心のひだに食い込み、ずっと後になってさえ、決定的な状況のときに不意に意識にせりあがってきて、その人の決断を食い荒らす。
若い女性に対する典型的な「性的いやがらせ」は「結婚しないの?」「子どもはできないの?」のふたつの質問である。
この問いかけは単なる質問のかたちをとっているし、場合によっては「親身になって心配している」ような偽装さえするけれど、そのねらいは「絶句させる」ことにある。
ひとは結婚する相手がいれば結婚するし、子どもができるなら子どもは生まれる。それがそうなっていないのには複雑な理由がある。心の奥の方にあって、誰かれ構わず説明できるようなものではない理由がある。それをあえて問いかけることの本当のねらいは、答えを封印した上で問いかけ、沈黙を強いることにある。
それはもう「呪い」という他にないだろうと私は思う。
「セクシャル・ハラスメント」の本義はおそらく「セクシャル・カース」である。それはひとのいちばん深いところにあるものを傷つけるために発動する邪悪なものだ。
そして、その「呪い」を解除するいちばん効果的な方法は、「これは呪いだ」ということを理解することにある。
呪いは理解を嫌う。
おそらく私もまたさまざまな場面で人々に「呪い」をかけている。
私の問いかけに絶句して青ざめている人々は私の「呪い」を受けて生気を失っているのである。
だから、この場を借りて、「ウチダといると、なんだか疲れるんだよね」と思っているすべての人々にアナウンスしておきたい。
それは「呪い」です。
解決法はただ一つ。
「ウチダから逃げろ」です。
はい、これでもう「呪い」は消えました。よかったね。
(2001-11-10 00:00)