2時過ぎまで漱石論をごりごり書いていたので、起きたら10時。
起きてそのままごりごり続きを書く。考えてみたら日本文学について長い原稿を書くのははじめてのことである。だいたい文学を論じること自体が久しぶりである。(映画のことばかり書いていたからね)
楽しくて、つい時間を忘れてしまう。
お昼になったので、芦屋市民病院に肺のCTを撮りにゆく。
はじめてCTというものをやってもらう。ちょっとどきどきするが、すぐ終わる。
せりか書房からレヴィナス論のゲラが届いたので、さっそく車の中や病院の廊下で読み始める。
第一章『レヴィナスと出会いの経験』はすらすら読めたが、第二章『非-観照的現象学』は苦労した。これはフッサールを毎日読んでいたときに書いたので、文体がフッサール風になっている。フッサールがフッサール的な文体で書けば当然にも明晰なのだが、ウチダがフッサールぽく書いているだけなので、まったく明晰でない。第三章『愛の現象学』は論敵がはっきりしているポレミックな文章なので、読みやすい。ずいぶん熱くなって書いたので、案の定ところどころで筆が滑って、「おおお、そこまで書くか。フェミニストに闇討ちされないかなあ」とどきどきする。
私は論文というのは、自分の頭の中身できるだけ包み隠さず満天下にご披露するために書くものである、という主義である。だから、出来の悪い本だが、あれこれいじらずに、このまま出すことにする。
だって、出来の悪いのは本ではなくて、私の頭なのであるから、それを包み隠そうとしたって始まらない。こちらの知能程度がすぐに分かる書き方をする方が読者にとっては時間の節約になるし、出版社は紙代の節約になる。
そのままソファに寝ころんでゲラを読み続ける。読み出すと止まらない。
これがもし私でなく、他の誰かが書いたものであったら、私はどう評価するだろうかと考える。たぶんこんなふうに書評するだろう。
「この著者は自分が知っていることを書いているのではなく、書きながら考えている。だから、話が同じ所をぐるぐるまわって、どうもくどくてかなわない。
しかし、著者がうまい具合に論理の隘路を抜ける路を見つけだして、見通しのよいところに突き抜けたときは、読んでる方もいっしょに『ほっ』とする。『や、お疲れさん』と肩のひとつも叩きたくなる。
レヴィナス思想という難所への先導者としては、あまり頼りにならないが、読者を置いて、どんどん先へゆくということだけはしない。それをリーダー・フレンドリーということもできるが、考えてみたら、遭難するときは読者も一緒なわけだから、その点がちょっと困るね。」
晩御飯は「みぞれ鍋」。野菜をたくさん食べないといけないよ、と石井内科の先生に叱られたので、水菜と大根を山のように食べる。美味しい。
(2001-11-05 00:00)