終日書き物。
晶文社の『おじさんの系譜学』の「漱石論」がどんどん長くなってしまったので、もうこれだけで単独の論文にしてしまおうということにする。(そんなのばっかだな)
『虞美人草』という小説はあまり評価するひとがいないみたいだが、すごく面白いと私は思う。
新潮文庫のあとがきでは柄谷行人がこの作品の文学史的な位置づけをしている。文学史的には徴候的な作品だが、内容的には論じるに足りないといった感じの低い評価である。
そうだろうか。
柄谷は主人公の宗近君について一行も書かないで、脇役である小野君と甲野君にしか言及していない。
私の考えでは、宗近君は東京帝大出の「坊ちゃん」であり、漱石が文学的虚構を介して、造型しようとしていた「理想の日本青年」像そのものである。
小野くんやら甲野くんの類は明治40年の巷にはすでにごろごろしていた。(だからこそ漱石はその「内面」を見てきたように活写することができたのである。)
いまだ現実に存在しないのは「内面のない青年」宗近一君である。存在しない青年をあたかも生身の存在であるかのように描き出すことが漱石にとっては喫緊の歴史的使命であり、文学者としての tour de force の見せ所であった、というのが私の『虞美人草』論である。
こういうフレームワークで読むと、『坊ちゃん』や『こゝろ』や『三四郎』の結構も「おお、なるほどなるほど」とするする分かってしまうから、お得な読み方だと思うんですけどね。どうでしょうか。
とにかく、ごりごりと終日漱石論を書く。
漱石のような作家の場合、読むこと自体が快楽であるだけでなく、それについて書くこともまた深い愉悦の感覚をもたらす。
というのは、漱石の文章を一定時間読んだあとにパソコンのキーを叩くと、あら不思議、私の指は漱石に憑依されてしまって、文体が「漱石化」してしまうからなのである。
もちろん漱石の名文には遠く及ばないが、私の中に死蔵されていた古典的語彙が墓場のゾンビのように甦って、「畢竟するところ」とか「高楼大厦も灰燼に帰し」とか云った大時代な文句がむくむくと湧き出てくる。
こんなふうに自分にとっての「自然な言葉遣い」が揺らぎ、「誰だか知らない人が書いてるみたい」な文章を書く経験はとても愉快である。
今日もこのあとは「漱石に憑依されてエクリチュールの絶頂を経験する」時間である。
この「恐山イタコ状態」は一度味をしめると、なかなかやめられない。
(2001-11-04 00:00)