10月26日

2001-10-26 vendredi

長い教授会。
というか、教授会はつねに「長く感じる」。

1・教授会で重要な決定がなされるときは、いろいろ意見が飛び交うので長く感じる。
2・教授会が始まる以前にすでに決定ずみの重要な事案を教授会で承認するときは、儀礼的にそこにいるだけなので、すごく長く感じる。
3・教授会で何も重要な決定がなされないときは、むなしく消えた時間が哀しくて長く感じる。

今日は、その2である。(実際は2時間ほどだったから、いつもに比べると短いくらいだ。)
今日は一回だけ動議を提出する。
***問題調査委員会に組合代表も入れるべきだということを元・組合執行委員長という「立場」から提起した。(動議は可決)
現執行部は、私の動議に反対した。
しかし、学院の経営に関する調査に、経営に深い利害関係をもち、その機能不全に対するチェック機能を期待されている教職員組合が参与することになぜ反対するのか、理由が私には理解できなかった。
現執行部のみなさんがこの問題について個人的にどういう意見をもっていたにせよ、組合執行部は組合員全体の利害を代表する「義務」を負っている。
私は執行委員長だったとき、常務委員会との交渉(うちでは「懇談」というソフィスティケートされた表現をする)の席で、「なんでおれがこんな杓子定規なこといわないかんのやろ」と内心で泣きながら、「理事会は労働者の立場をどーかんがえておるのであるか。なめんとあかんど、こら」というような啖呵を切っていた。
気が乗らないけど、それが「付託された仕事」だと思っていたのだから仕方がない。
私にさんざんとげのある言い方をされて、がっくり気落ちして暗い夜道を帰る理事長の背中に向かって「ごめんね、意地悪で」と手を合わせたこともある。
因果な仕事だ。
私は執行委員長のときはすべての職員の生活権を擁護すべく必死の論陣を張り、委員長を降りたあとは「ろくなはたらきもせん職員はリストラじゃい」というような暴言を教授会で吐いた。
それを「二枚舌」と怒る人もいるだろう。
私は二枚舌どころか、「n枚舌」である。
社会人であるということはネットワークの中の結節点としてしか存在しないという自己限定を受け容れることである。私はそう考えている。
「じゃあ、ウチダの本音はどこにあるんだ」
と詰問する人もいるだろう。
「私の本音」なんかどうだっていい。(集団の運営について議論しているときに、個人の「本音」なんてカウントしても始まらない。)
自分に付託された社会的機能をできる限り適切に果たし、それによって集団が得られるベネフィットを最大化すること、それが社会人の仕事である。
「ベネフィットの最大化」はどういう手段で達成されるかについての計量的な判断にさまざまな異論があるのは当然である。そもそも「ベネフィット」とは何か、についてだって色々な考え方があって当然だ。
だから「ウチダのやり方じゃなくて、こっちのの方が、もっと多くの良質のベネフィットが得られるよ」という異論に私はつねに謙虚に耳を傾ける。
そういう点において、私は「negotiable」な人間である。
組合が調査委員会に参与しない方が組合員全体のベネフィットが大きいという考え方があり、相応の根拠が示されれば、私は全身を算盤にしてその損得を比較考量する。

家に帰って名古屋大学の講義のために『大脱走』を見る。
大好きな場面、スティーヴ・マックイーンが鉄条網によじのぼる相棒のアイブスに銃を擬したドイツ兵にきれいなジャンプで「腰をぶつける」場面に見惚れる。このときのスティーヴ・マックイーンの助走からジャンプまでの身体の運動の線は、『荒野の七人』の中で、銃撃を避けてバーのカウンターを飛び越すときのジャンプの線と同じくらい美しい。
完全に身体の力が抜けた状態でスティーヴ・マックイーンは空に浮く。空中を飛ぶ姿勢がこれほど美しい俳優を私はスティーヴ・マックイーンの他に知らない。
『大脱走』では、停止した状態から、何の「タメ」もなく、いきなり歩き出すジェームス・コバーンのすばらしい歩き方を何度も見ることができる。武道的に言うとまったく「起こりのない」動作である。同じ動作は『荒野の七人』でのナイフでの決闘の場面でも見られる。これもまた何度見ても惚れ惚れする。
どうして映画批評は起こりのない歩き方とか馬から降りるときの体軸の立ち方とか長椅子を飛び越すときの肩の力の抜け方といったことを主題的に論じないのだろう。私たちが「スター」に感じる魅力のほとんどは彼らの身体運用の天才性から発しているのに。

スティーヴ・マックイーンに見惚れていたら電話がかかってくる。
松聲館の甲野善紀先生からであった。ちょっとびっくりしたが、先日梅田の講演のときに名刺をお渡ししてあったから、12月の講演会と稽古会の打ち合わせかな、と思って話し始めたら、いきなり武道の話になってしまった。
甲野先生は前にも書いたけれど「間の取り方」の達人である。だから、電話に出たとたんに「さっきの話の続きなんだけどさ」という感じでコアな会話が始まる。こちらもなんだかずっと前からの知り合いみたいな気分になって、「ほんと、そうですよねー」というような気楽な受け答えをしてしまう。気がついたら一時間近く話し込んでしまった。
ほとんど初対面の人に旧知の人のように話しかけるというのは、達人の芸である。
「間」が読めて、相手の周波数と瞬間的にチューニングできる人でないとそういうことはできない。この間の梅田での「お手合わせ」で私の周波数は甲野先生の知るところとなってしまったらしい。
前田英樹さんとの共著の新刊を贈って下さるそうである。楽しみである。