名古屋大学での集中講義のためのノート作りを始める。5日間連続でくらいやるわけだから30時間分くらいのネタを仕込まないといけない。
予定では、「今日はヒッチコックの映画の話をします。なに? 『北北西に進路を取れ』も『鳥』も『サイコ』も見てないひとがいる? こまったなあ、それではぜんぜん講義にならないなあ。しかたがない、全三作品一挙上映といこう」というようなずっこい手をつかって1日浮かせるということも考えたのだが(かなり真剣に考え、いまも考えている)そんなことをしてお鳥目をいただくと天罰が当たりそうである。
今回のテーマは「映画の解釈学」。
映画はあらゆる物語装置とおなじく、「意味の亀裂」を含んでいる。
私たちを挑発するのは、その「意味の亀裂」である。
その断層に架橋するために、私たちは「解釈」というものを試みる。
解釈というのは、要するに「なんだか話のつじつまが合わない」ところでむりやり「つじつまを合わせる」ことである。
これが楽しいのね。
つじつまのあった話というのは実は面白くも何ともない。
つじつまの合わない話で、最後までつじつまが合わないままで終わる話は無性に腹が立つ。
つじつまの合わないところがあちこちにあるのだが、ある「解釈」の導入によって、一気にすべてのつじつまが合うという時、私たちは深い愉悦を覚えるのである。
よい物語の条件がこれでだいたい分かる。
(1)つじつまの合わない部分が散見される
(2)ある解釈を導入するとそれが劇的に繋がる
(3)でもまだ「繋がらないところ」が残る
(4)ある解釈を導入するとそれが劇的に繋がる
(5)でもまだ・・・・(以下無限につづく)
つまり不整合が「劇的に繋がる」という愉悦を定期的に提供しながら、決してそれが「品切れ」にならないように「謎」が構造化されている物語が「よい物語」なのである。
映画の場合もそれと同じである。
「ん? なんだろ、これは?」というような「怪しい」ファクターがあちこちに散乱しており、ある解釈によって、それがみごとな「意味」に一度は編成される。しかし、決して一義的な解釈に収斂することなく、一度編み上げられた「意味のテクスチュア」がほうっておくと、すぐにほころびてくるような結構になっている作物がよろしいのである。
ここまでは分かるね。
では、映画における「怪しいファクター」とはどんなファクターであろうか。
何かが「怪しい」あり方には二通りある。
(1)みるからに怪しい
(2)あまりにも怪しくない
精神分析が教えるように、「抑圧」はたいていの場合、あまりにもうるさく「ここには抑圧なんかありませんよ」とアナウンスされる場所にひそんでいる。
「ちょっとは怪しくてもいいはずなの、なぜかぜんぜん怪しくない」ものはかえって「怪しい」。
解釈学的センスというのは、この(2)の「あまりに怪しくないもの」に抵抗を感じる感性のことである。あまりになめらかに意味がつながるときに、「なめらかすぎないか? これは」というふうに懐疑するのが解釈学者のだいじな仕事である。
ほとんどの批評家は「目立つもの」に焦点化して作品を批評する。
べつにそれは悪いことではない。でも、それだけでは退屈だ。
あまりに「目立たないもの」、ほんとうは「そこにあってもいいはずなのに、なぜか、ないもの」を想像的に感知するのが解釈学的センスである。
「そこにあるもの」に基づいて、「そこ」の意味を探り当てるのはむずかしいことではない。
「そこにあってもいいのに、ないもの」に基づいて、「そこ」が何を抑圧して成立した場所であるかを探り当てるのは、けっこうむずかしい。
天安門には中国共産党の元勲たちの群像が描かれている壁画がある。途中で失墜した政治家たちは、その絵から消される。消されて、まるでもとからそこにいなかったように、なめらかに絵は修復される。北京市民はにこにこと絵を眺めている。
抑圧というのは、こういう機制である。
絵をその「構図の妙」やら「筆遣いの巧みさ」やら「色彩の華麗さ」といった芸術学的水準でながめているひとには、その絵が何を抑圧するための装置なのかということがついに分からない。なぜなら、彼らは「そこにあるもの」から発想し、それが何かを欠いているという可能性を決して吟味しないからである。
映画を見る場合も文学を読む場合も、事情は同じである。
物語を経由して人間たちは何を愉悦し、どんな嘘をつくのか。そのことについての年期の入った知見に支えられない限り、物語についての解釈が真の批評性をもつことはできないと私は思っている。
というわけで、『大脱走』なんか見ながら、私の講義は「解釈学的知性とはいかなるものか」というふうに展開してゆく予定なのである。乞う、ご期待。
(2001-10-25 00:00)