10月23日

2001-10-23 mardi

起きたらなんだか風邪気味で熱っぽい。でも学校があるので、ふらふらと出かける。
昨日に続いて「自立」について考える。
「自立するためにはどうしたらいいのでしょう」と問いかけてきた人がいる。
それは「借金を返したいので、お金貸して下さい」と言っているのと同じことだよと言って聞かせる。
自分のことは自分で決めて、そのリスクは自分で引き受ける。
自立というのは、煎じ詰めればそれだけのことだ。
リスクは自分ひとりで引き受け、そこから得られたベネフィットは他人と分かち合う。
社会性というのは煎じ詰めればそれだけのことだ。
自立していない人間は当たり前だが社会性がない。
社会性がなければ、人間が社会で生きてゆくためにいちばん必要な資源が得られない。
人間が社会で愉快にかつ威信をもって生きて行くためにいちばん必要なのはお金でもないし、愛でもない。
敬意である。
他者からの敬意だけではない。大切なのは「自分に対する敬意」だ。
そのことをアナウンスする人がほんとうに少ない。
「私は愛が欲しい」「私はお金が欲しい」と言い立てることが人間として正直なことで、よいことだと思っているひとがいる。
その人は正直であることによって、その人の値打ちが下がることもある、という当たり前のことに気づいていない。そのような言葉を一回口にする毎に、その人は大切なものをドブに棄てているのである。
「誰にもめーわくかけてないから、いいじゃないか。ほっといてくれよ」
というようなエクスキューズで、売春したり、コンビニの前の道路にへたりこんでいる高校生がいる。
彼らは「自分は社会人として最低のラインだけはクリアーしているから、それでいいじゃないか」と言う。
別にいいよ。
でも、自分自身に「社会人として最低のライン」しか要求しない人間は、当然だが他人からも「社会人として最低の扱い」しか受けない。そのことはわきまえていた方がいい。
自分の弱さや愚かさを「大目に見てくれ」と言って甘える人間は、自分の持っている最も高価なもの―自尊心―を捨て値で売り払っているのである。
一度失った金を取り返すのはたいしてむずかしいことではない。
一度失った愛を取り返すのも不可能ではない。
でも、一度失ったら、「自分に対する敬意」は二度と取り返すことができない。

家にもどって「早めのパブロン」を呑んで1時間ほど寝る。汗が出て、熱が下がる。
夕方から元町で『ミーツ』の江さん主催の「ウチダを肴にお酒を呑む会」が開かれているので参上する。
参加者は江さんの他にワイン・バー『ジャック・メイヨール』の橘さん、博報堂の土屋さんと永峰さん、「ミーツ」編集部の塩飽さん、イラストレイターのアジサカ・コウジさんの六人。
塩飽さんは三重から、アジサカさんは福岡からわざわざウチダの顔をみるために来神されたのである。(アジサカさんにはサイン入りご高著『ププの生活』を頂く。「シティ情報フクオカ」に連載されている四コママンガ集。おもしろいぞー。)
年齢は20代から40代まで。『ためらいの倫理学』を読んで、「このオッチャンと酒のも」という趣旨のもとにお集まりになった愛読者の皆さんである。江さんが精選したメンバーだけあって、談論風発、実に愉快痛快な方々であった。
元町の牡丹園別館で広東料理をごちそうになり(博報堂さまの奢り)、旧居留地のバーでワインとシーバスをごちそうになり(江さんの奢り)、さらに高架線北側のバー「キム」に繰り出す。
「ウチダさん、レヴィナスの***というのはどういう意味でしょう?」という種類の専門的なご下問が多い。私はレヴィナス思想の伝道師というよりは老師のお墓を洗ったり、落ち葉を掃いたりしている遺徳顕彰会の下働きなので、「顔って言うたら、ま、顔のことですわな」というような頼りない応接しかできない。美味しいものをばりばり食べて、お酒を頂くばかりである。
しかし、レヴィナス老師の書き物がこのように広い領域の読者に読まれているということは一翻訳者としては実にうれしいことである。それぞれの読者が単なる知識や情報としてではなく、自分の生き方に切実にかかわりをもつ叡智として、自分の言葉に言い換えながらレヴィナス老師のテクストを読んでいる。
このような読まれ方をこそ老師は切望していたのである。
『ミーツ』の連載は「町場の現代思想」(仮題)というものになるそうである。
「町場」という言葉に江さんはこだわりがあるみたいだ。
「町場」というのは、ただの消費空間ではなく、生活と歴史の厚みを持つリアルな現場のことらしい。
挿し絵はアジサカさんが描いてくれる。挿し絵つきの連載エッセイのお仕事なんて生まれてはじめてである。