村上龍の『最後の家族』と『すべての男は消耗品である Vol.6』を同時に読み終わる。村上の主張はどちらにも一貫している。
しかし、考えてみると、小説を媒介にして何かを「主張する」roman a these というような作物をいまごろ生産している作家って、村上龍くらいしかいない。
「ロマン・ア・テーズ」すなわち「テーゼをもった小説」とは、あるテーゼを立体的に理解させるために物語を媒介させるという書き物のことである。小説の「意味」は作家がそこにこめた「メッセージ」にある、という考え方は19世紀的な「作家主義」としてとっくの昔に葬り去られてしまったはずなのだが、そのような文学史的常識もものかは、村上龍はまるでバルザックのように、スタンダールのように、サルトルのように、ごりごりと「自分のメッセージ」を物語にのっけて、私たちに差し出してみせる。
こういう「常識だの文学史だのが何ご託をならべようと、おいらはおいらだい」というあたりが村上龍の真骨頂である。人がなんと言おうと、私はやりたいようにやる、というこの村上龍の姿勢に私は深い敬意を払うものである。
村上龍はインタビューで「この小説は何を言いたいんですか?」という質問をしりぞけて、この小説が言いたいことはこの小説に書いてあります。ひとことで言えるなら小説なんぞ書きません、としごくまっとうな答をしている。
ある概念をべつの概念で言い換えても、理解は進まない。
とりわけ難解な概念の場合は物語を媒介させないと、理解が及ばないことがある。
例えば、フッサールの「間接的呈示」という概念は、ほかのどんな単語に置き換えてもそれで意味が分かるようになるというものではない。その場合には「たとえ話」を聞かせるほかない。
あのね、君の前に一軒の家があるとするね。
君には家のドアのある前面しか見えない。脇へ回り込むと家の側面があり、裏側に回ると裏面があるんだけれど、家の前にいる君には前面しか見えないよね?
でもね、家の前面しか見えない君はどうしてそれが「家の前面」だということが「分かる」んだろう? なぜ側面や裏面がある、と「分かる」んだろう?
でも、なぜか分かっちゃうんだよね。
だって、君は家の前にいながら、同時に、想像的には、家の横にも、家の裏にも「いる」んだから。
ただし、そこにいる「君」は現実の「君」じゃない。君の分身だ。これを「他我」と呼ぶことにしよう。
「他我」っていうのは、君じゃないけど、君を基礎づけている。だって、家の違うアスペクトを見ているこの分身があってはじめて「家の前面に立っている意識」である「君」のリアリティは確保されているんだから。
彼らはつねにそこにいる。だけど、実はそこにはいない。
だってもしペストがはやって世界中の人が君を残して全部死んだと想定してみても、そのときも依然として家の前面は「家の前面」として君の意識に現前するはずだから・・・
というふうに、延々と「お話」は続く。こういう長いお話をしてあげないと、「間接的呈示」という概念はまず理解不能だ。
村上龍がやっていることも、これと同じである。
『最後の家族』で村上は「自立とは何か?」という問いを立てて、それをめぐって物語を紡いでいる。
四人の家族と、それをめぐる人々が、それぞれの立場から「自立とは何か?」という問いに自分の生き方を通じて答えを出そうとする。
村上の小説のよいところは、この「自立とは何か?」という問いが抽象的な議論に陥ることなく、まっすぐに「何をして生計を立てるか?」というえらく具体的な問いにリンクするところである。
「自立とは何か?」という問いに答えるのは簡単だ。
自己決定すること、依存しないこと、おのれの欲望を知ること、模倣しないこと、権威に屈しないこと、自分の言葉で語ること、クリエイティヴに生きること・・・誰でも何とでも答えられる。
村上はそんな答に興味がない。
「では、それを実現するために、君は何で生計を立てるつもりなのか?」
自己決定が可能であるためには、その人の「決定」が熟慮された合理的決断であり、かつ誰にも阻止介入することのできぬ実力的な裏付けをもつものであり、かつその事実が関係者全員に熟知されていることが必要だ。
自己決定が可能であるためには、それ以前に、その人の判断が「ほぼつねに適切であった」という事実と、その人がいったん「やる」と決断したことは「ほぼつねに実現されてきた」という事実の蓄積が必要だ。
自己決定というのは「よーし、今日からおれは自己決定するぞ」というようなお気楽なものではなく、長期にわたる実践を通じて獲得され蓄積された社会的な敬意と信用の上にはじめて可能なものなのである。
村上がいちばん嫌っているのはその事実を直視せずに、おのれがすでに自立を達成しているかに錯覚している若者たちである。
「戦略的に十年後のことを考えたときに、フリーターという地位は非合理的だ。三十五歳でマクドナルドのアルバイトをすることを考えればわかることだ。あるいは四十歳でガソリンスタンドで働くことを考えればわかりやすい。そういった職場で、年下の上役に命令され、こき使われることを想像すれば、ほとんどのフリーターの未来が見える。(...) ほとんどのフリーターは『有利に生きられる』ということを誤解しているのではないだろうか。有利に生きるというのは、アドバンテージを持つ、というような曖昧なことではない。それは高価で美味しいイタリアンレストランで食事ができるとか、広い家に住めるとか、他人からこき使われずに済むとか、そういったミもフタもないことである。
どうしてそういったアナウンスがないのだろうか。二十歳を過ぎて、専門的な技術や知識の習得もないまま、十年、二十年が過ぎると、低いランクの職業に就くしか選択肢がなくなり、しかもそれは他人にこき使われることを意味する、というようなことをフリーターに向かって言う大人が誰もいない。」
私の周囲の若者たちの中にも「無為に、無目的に」十代、二十代を過ごしてしまったものはいくらもいる。
本人は主観的には「目的をもって」生きたのかもしれないし、「専門的な技術や知識の習得」をめざしたのかもしれない。だが、その努力も「他人にこき使われずに生きられるような社会的アドバンテージ」と具体的にどうリンクするのかという切実な問いをネグレクトしたままのものであったら、結果的には「無為」に過ごしたのと同じことだ。
卒業後、外国に留学する学生が多い。しかし、二年や三年漫然とアメリカやフランスにいたくらいで習得できる「技術や知識」にはほとんど「値札」がつかない。それは大学や専門学校にしても同じことだ。どこであれ漫然と過ごした時間に獲得できる社会的リソースの価値は「ゼロ」である。
自立というのは、単純なことだ。
それは要するに「バカな他人にこき使われないですむ」ことである。
「あら、あたしは何も社会的能力ないけど、金持ちの男つかまえるから、いいわよ」というような不埒なことを言う女もいる。
だが夫に稼ぎがあって、「高価で美味しいイタリアンレストラン」や「広い家」が確保されていたとしても、夫が「バカな他人」であるかぎり、自己決定の道は構造的に閉ざされている。だって、何の社会的能力もない女を喜んで妻に迎えるような男は、家事労働者と性的愛玩物として「こき使う」ことしか配偶者に求めていないからだ。
「どうしたらバカな他人にこき使われずにすむか?」という問いを切実なものとして引き受け、クールでリアルな努力を継続した人間だけが、他人にこき使われずに済む。
そんな単純なことが分からないでいる若者があまりに多い。
(2001-10-22 00:00)