10月19日

2001-10-19 vendredi

長い教授会。
「学内某重大事件」の決着をめぐる議論であるが、私の言いたいことはだいたい他の人が言ってくれるので、黙っている。
そしたら、休憩のときに廊下で三人の先生から「ウチダさん、今日はおとなしいですね」と言われた。
うーむ、私はそれほど日頃「やかましい」男だと思われていたのか。
私は自分の言いたいことは必ず言うけれど、どこかで一回言ってしまうと、同じことを別の場所でもう一度繰り返すことはあまりしない。だって、同じことを言うと、飽きるから。
だからといって、前と違うことを言うと人々は「前と違うじゃないか」と言って怒るし。
しかたがないので、黙っているのである。
黙っていても、ちゃんと話は落ち着くところに落ち着くからよいのである。

今日は平川くんが大阪に来ているので、人事教授会をフケて、西宮北口で待ち合わせ。携帯を導入したので、「いま、どこ?」「階段あがってるとこ」「階段のどのへん?」「パン屋がみえるとこ」というようなピンポイント・ランデブーが可能になる。これは便利だわ。
「花ゆう」にて久闊を叙す。
平川くんのビジネス・カフェはすっかり大企業になってしまって、なんと資本金5億円の大企業。私はその創業者であり監査役であるので、平川社長から業務内容の報告などをおもむろに伺いつつ、お刺身などを頂く。
五億集めたけれど、とりあえず使い道がないので、余った二億で資産運用したら、株が下がって1000万円損しちゃったというお話を聞く。

「差損が出たらどうするの?」
「『ごめんね』って土下座するの」
「ごめんね、で済むの?」
「うん」

なるほど。相変わらず平川くんの出処進退は分かりやすい。
リナスさん(リナックスのリナスさんね)やブッシュさん(あのブッシュさんじゃなくて、その弟さんの方)と丁々発止とサンノゼで仕事をしている平川くんの卓越した資質は、儲かるかどうか分かんないけど、とにかくこの人とビジネスしてると、なんだかわくわくするな、という気分を醸成することである。
平川くんといると、いつでもわくわくする。
ともだちになって、もう40年になるけれど、「5年5組」のときにふたりで悪戯をしまくってわくわくしていたときと、気分は少しも変わらない。
「花ゆう」のカウンターのとなりに、なんだかじゃかましい酔っぱらいのおじさんが二人いたので、ちょっとムカついてきて、立ち上がっていきなりしばきたおしたろかと思ったけれど、ぼくが立ち上がって、「こら、えーかげんに、おとなしくのまんかい」とどなりつけたら、平川くんも間髪を容れずに立ち上がって、スパコーンと回し蹴りとか出るんだろうなと思ったら、なんだか愉快になって、おじさんのわめき声も気にならなくなった。(平川くんは松濤館空手五段なのだ。)
こういう「どんな状況でも絶対に自分の味方である友だちがかたわらにいる」ことの安心感というのは、なんとも形容のしようがない。
ぼくたちは40年間、ほとんど同じことを考え、同じことを感じてきた。
そんなことって、あるんだろうか?
ぼくも平川くんも自分のなかにある「あいまいな感覚」や「なんだかわけのわかんない観念」を言語化することについては、相当に熟練している。それなのに、自分の中にある非常に言語化しにくい「思い」をようやく言葉にしたとき、相手から来る反応はいつでも「そう! それこそ、ぼくが言いたかったことなんだよ!」なのである。
そんなことって、あるんだろうか?
たぶんそんなことはありはしない。
ぼくと平川くんが完全に同意しているのは、ぼくたちが「自分が前々から思っていたこと」より「自分がいま発見したこと」により大きな価値を見出す人間だということである。
ぼくはずっと変化し続けているし、平川くんも変化し続けている。変わらないのは、二人とも「変化することが大好き」なので、相手が「自分では思いつかなかったこと」を口にした瞬間に、「わ、面白そう。それいただき!」とばかりに、自分を相手に合わせて「変化」させてしまうというスタイルを共有していることである。
ひとは永遠に同じではないから、気質や価値観に基づいて、友だちでい続けることはできない。でも「友だちである仕方」は本質的には変わらない。
人は変化する。しかし「変化する仕方」は変化しない。
同じ価値観を共有する人と出会うことはむずかしくない。
けれども、ある価値観から別の価値観へ「シフトする」マナーが同じ人と出会うことはレアである。
「友だちである」というのはそういうことではないかとぼくは思う。