10月19日

2001-10-19 vendredi

合気道のお稽古。今日から合気杖の稽古を週一でやることにした。多田塾合宿で組杖を二種類習ったので、これをぜひみなさんに覚えて頂こうというわけである。
「一の杖」の方はできるのだが、「二の杖」の方は、私がむかし習ったのと型が変わっている。多田先生によると、これは「2001年ヴァージョン」であって、「次のときは変わっているかもしれないよ(笑)」ということである。急いで覚えないと、ご縁がないままになってしまう。「二の杖」はさいわい合宿中に工藤くんと鍵和田くんにビデオ出演して頂いたので、これを「ビデオ教本」としてお稽古する。
体育館で1時間杖の稽古をして、ロッジへ移動して体術の稽古。
四年生が「帰ってきた」ので、道場の人口密度がぐっと上がって、なんだかわんわんしている。稽古はこういう過密状態の方がテンションが上がるし、「集団憑依状態」になりやすい。誰かが笑うと、その笑いがすぐそばの人に伝染る。
空間的には狭くてちょっと不自由だが、その分気の練れたよい稽古ができた。
みんなで笑いながら帰途につく。

家に帰るといろいろな人から電話がかかってくる。
せりか書房の船橋さんから「レヴィナス論」読みました。面白かったので、何度も読んじゃいましたというご連絡を頂く。これまで読んだレヴィナス論の中でいちばん分かりやすかった、というありがたいご感想である。
ただイリガライとボーヴォワールの悪口をいくらなんでも書きすぎなので、も少し控えて頂けないか、というご要望である。
ごもっともである。私だってそう思う。
しかし、イリガライとボーヴォワールはあろうことかあるまいことか老師を名指しで「ワルモノ」よばわりしたのである。私が前後を忘れて取り乱すのもやむを得ない。だが、原稿が戻ってきたら、少し冷静になって書き直そう。
ところでこのレヴィナス論はせりかの企画した現代思想家総覧シリーズの一巻であって、全部で25人くらいの書き手が20世紀を代表する思想家論を書き下ろす予定であった。
私は話を頂いてから原稿を出すまで6、7年もかかってしまったので、きっとシリーズ執筆者の中のびりっけつだろうと思ってい。そしたら、何と、私が「原稿提出第一号」なのだそうである。これにはびっくり。うちの業界のみなさんも、けっこう、あれですね。


そのあと都立大の菅野賢治先生からお電話。科研の申請の仲間に入りませんかというお誘いである。
菅野先生は19世紀20世紀フランスの「変な人たち」のことをよくご存じのコアな研究者である。私もむかしその筋の「変な人たち」についていろいろ調べていたことがある。こういう「オタク」な領域で袖すり合うと「おや、旦那はんも、こっちの方がご趣味でっか?」的に親密な気分になるものである。
私はもう「そっちの世界」からは足を洗って、いまはカタギな市民生活をしているのだが、こういう誘いにはついふらふらしてしまう。

タオカさんからお電話。合気道部史に名をとどめる「泣き上戸のタオカさん」である。マンチェスター大学で学業を修められていたが、このたびめでたく博士号をおとりになって帰朝されたのである。ご専門は認知言語学。さっそくお稽古とお仕事のご案内をする。

そのあと上野先生からお電話。「学内某重大事件」についてのご相談である。
例によって子細にわたることができないので、一般論を述べる。
私は経営者にはモラルを求めない。「ワルモノ」だって、ぜんぜん構わない。
ただ「クレバー」ではあって欲しいと思う。ふつうに「損得の算盤」が弾ける人であって欲しいと思う。
「意地」とか「メンツ」とか「世間体」というものも「損得の算盤」にのせて数値化できるファクターであると私は思っている。自分のメンツを組織の解体的危機よりも優先させるというような算盤のはじき方をする経営者は人格をうんぬんする以前に「頭が悪すぎる」と私は思う。
あくまで一般論ですけど。

電話が終わってようやくワインを呑む。
『姿三四郎』を見てから、村上龍の『最後の家族』を読み、志ん生の『五人回し』を聴きながら寝る。なんだかもりだくさんな一日でありました。ふう。