後期は水曜日がオフになったので、週休5日というとんでもない勤務形態になってしまった。月オフ、火3コマ出勤、水オフ、木2コマ出勤、金・会議、土日オフというシフトである。金曜に会議がないと、金土日月の四連休である。
世間のサラリーマンが聞いたら、怒りで目が赤くなるであろうが、週5コマというのは、本学の教員の「義務時間」であり、これを超えると「超勤手当」が頂けるのである。
もとからそういう仕組みになっているので、怒られても困る。
しかし、オフの日だからといって遊んでいるわけではない。昨日も終日お仕事である。
晶文社のホームページ用に「おじさんの系譜学」の原稿を書く。
これは毎月月末締め切り、枚数自由(稿料は枚数に無関係に定額)という気楽な原稿なのであるが、いざ始めてみると、月刊連載というのはけっこうタイトである。一本書いてやれやれとおもっていると、すぐ次の原稿の締め切りが来る。
週刊誌とかに連載を書いている人はどれほどの思いで日々をすごしているのであろうか。ましてや日刊紙に連載マンガをかいている、いしいひさいちや長谷川町子先生のご苦労は想像するだに頭が下がる。
漱石の『虞美人草』論を書くつもりでいるのだが、さっぱり本題にはいらないで、うろうろしている。結論はもうできているのだが、私自身が知っている結論を書いてもあまり面白くない。できれば、書いているうちに、予定とぜんぜん違う話になってくれるとありがたい。
『虞美人草』には三人の青年が登場する。甲野欽吾くんと宗近一くんと小野清三くんである。甲野くんと小野くんは哲学者と文学者であるので、いろいろとむつかしいことを考える。宗近くんは、まあお気楽なボンクラ青年であり、あまりものを考えないで、遊んでばかりいる。
この二組の「考える青年」と「考えない青年」違いは、文学史の用語でいえば、甲野くんと小野くんには「内面があり」、宗近くんには「内面がない」ということである。
「内面」というのは明治文学の発明品である。
では小説のテーマは「内面のある青年たちの葛藤」かというと、そうではないのである。
ここが漱石の食えないところである。
この小説の真の主人公は「内面のない」宗近くんであり、この心やさしく、行動力抜群のボンクラ青年のうちに漱石は「近代日本人」の理想を見たのである。
「内面なんかブタに食わせろ」
これが明治40年において夏目漱石が満都の読者に投げつけた挑発の言葉であった。
「内面」を(あるいは「主体性」といってもいい、「自我」といってもいい)持ちたがるものは、必ずその担保を「他者」に求める。甲野くんにとってそれは審美的生活の原理であり、小野くんにとっては博士号と恒産である。そのような象徴秩序に全身を仮託することで、青年たちはせこい自我を成り立たせている。
宗近くんは違う。彼は象徴的水準のものをまるで信じていない。「信じていない」というより、そんなもの「食べたことがない」ので知らないのである。彼が信じるのは妹の糸子ちゃんが裁縫するときのしぐさが「かっわいー」とか、そういうレヴェルのことである。
えー、自我ですか?いいですよ、そんなの。ぼく、要らないし。
というのが宗近くんの真骨頂であり、漱石はこのノンシャランスのうちに「真の人間的成熟」の可能性を見出したのである。
そう、近代的自我なんか要らなかったのである。内面なんかなくたって、人間立派に、やさしく生きられるのである。
お金もちであることのよいことは、お金があるとで私たちはお金のことを考えないですむ、ということである。健康であることのよいことは、健康であると私たちは健康のことを考えないですむ、ということである。
それと同じように、「おとなである」ことのよいことは、「おとなになるってどういうことなの?」なんて考えずにすむ、ということである。
漱石はほんとうに深い。
(2001-10-18 00:00)