10月17日

2001-10-17 mercredi

人間がナチュラルな状態にあると、環境の微細な変化にこまめに反応するようになる。
私は最近ナチュラルな人間になりつつあるらしく、環境の変化に対する感度が高まっている。
気圧の変化によって体調が激変するのもその一つである。
昨日から気圧が下がって「秋雨」が降り続いている。
すると、右膝が疼痛を発する。
むかしのTVドラマでは、よくお爺さんが「おお、膝が痛んできたから、もうすぐ雨が降るぞ」と言っていた。「ほんとかしら」と子どもの私は半信半疑であったが、あれはほんとうである。
気圧が下がると膝がじくじく痛み出す。からりと晴れ上がると痛みが消える。

そればかりではない、「気圧同調体質」になってしまったせいか、雨が降り出すと猛烈な眠気が襲ってくる。昨日は日没とともに壮絶な眠気にとらえられ、やっとの思いで家まではたどりついたが、夕食までが限界で、台所を散らかしたまま午後7時にベッドに潜り込み、目が醒めたら午前8時。13時間眠り続けていた勘定である。
うまく言えないけれど、先々週の多田塾合宿で、何か「憑き物」が落ちたのか(あるいは「憑き物」が取り憑いたのか)、体質が変わったような感じがする。
肩の力が抜けて、ディフェンスが下がり、「わし、もうどーでもえーけんね」状態になりつつある。いろいろな懸念や心配事がぜんぶ遠景に退き、「ま、じたばたしても、なるようにしか、ならんわな」という脱力ぶりである。

「リラックス」している状態と、していない状態の差というのを、私はこれまで個人の対社会的な「構え方」の差というふうに考えてきた。
だが、どうもそうではないらしい。
「構え」の差、ということになると、「よし、今日から私は世界に対して開放的に生きよう。ごりごり」というような「決意」の水準でリラックスが達成されることになる。しかしご案内のとおり、実際には「さあ、リラックスするぞ」というような意気込みは、「こわばり」としてしか徴候化しない。
リラックスというのは、「構える」というよりはむしろ「投げる」という感じである。「生きる」というよりは「生かしていただている」という感じである。
多田塾合宿で私が得たのは、「burden sharing」という考え方である。(リストラに抗して「work sharing」ということをしている人たちがいるが、あれにちょっと似ている。)
私たちが一個人として世界に対峙しているという「モナド」主義的な発想をしている場合、「私の重荷」は私一個のものである。私がリラックスしていようとしていまいと、私が絶好調であろうと絶不調であろうと、それはすべて「私の荷物」である。
これを分割してしまうのである。
「分割」というよりむしろ「リンクをはってしまう」のである。
いろいろなリンクの結節点として、私をとりまくネットワークの総合的効果として「私の重荷」というものが「たまたま」徴候化しているわけで、別に「私ひとりの責任」ではない。
だからといって「他の誰かの責任」でもない。
いわば「みんなの責任」である。
これが「重荷をシェア」するということである。
私の失敗や私の不幸は、私個人のせいではない。無数のファクターの効果である。
同じように、私の幸福や私の成功もまた、私個人に淵源を持つわけではなく、無数の人々の参与の効果である。
村上龍がこりこり怒っている「日本型システム」は、こういうふうにすべての問題を個人が引き受けることを拒否して、集団に解消してしまう「everybody's responsibility is nobody's responsibility」(みんなの責任、無責任)体質にあるわけだが、私は個を解消して、集団にリンクする、という発想そのものは実は悪くないと思っている。
大事なのは、その「あと」に、そのようなリンケージの確保に基づいて、「私」をきちんと造り上げてゆくということである。
つまり「my responsibility is everybody's responsibility」(私の責任はみんなの責任)と言い募って肩の荷をおろしたあと、「everybody's responsibility is my responsibility」(みんなの責任は私の責任)という発想に切り替えて、こんどは人の荷物をかついであげるのである。
私の荷物は他人にかついでもらい、他人の荷物は私がかつぐ。これが burden sharing である。
多くの人々は、他人の荷物は重たく、自分の荷物は軽いと思っている。
それは違う。
逆である。
自分の荷物は重たいが、他人の荷物は軽い。
私が言っているのではない。レヴィ=ストロースがそう言っているのである。

「人間は自分の望むものを他人に与えることによってしか手に入れることができない。」(レヴィ=ストロース先生はつねに明晰だ。)

だから、楽になりたかったら、自分の荷物を放り出して、他人の荷物を担げばいいのである。
別に「同じ重さの荷物を担げ」とは誰も言ってない。
自分の荷物を放り出すくらいだから、相当「お疲れ」に決まっている。
自分の肩から荷物をおろしたら、そこらの誰かの、てごろな荷物(風呂敷一つとか、筆箱一つとか)を持って歩けばよろしい。軽いのでよいのである。
そんなことをしたら、重い荷物ばかり担いでる人と、軽い荷物ばかり担いでる人が出てきて、不公平になるんじゃないかとご心配の方もおられるだろう。
あのねー。そういう発想そのものが「モナド」主義的なのよ。
「荷物の重さ」というのは、「幻想」なの。
そんなもの「実体」としては存在しないの。
「重い」と思えば「重く」、「軽い」と思えば「軽い」。「軽い荷物」はいくらかついでも「軽い」。
レヴィナス先生は「世界の重みを一人で担うものが『私』である」とおっしゃったが、それは別に汗水たらしてうんうん唸ってがんばれというような体育会的なことをおっしゃっておられるわけではない。
「世界の重み」は「他人の幻想」だから、「私」の身には少しも重くはない、嘘だと思ったらかついでごらん、気持いいぞー、とおっしゃっているのである。
リラックスできない人というのは、こういうレヴィナス老師のありがたいお言葉を聞いても、「何気楽なこと、言ってんのよ! あたしなんか自分の荷物が重すぎて、他人のことまで気が回らないわよ! きー」というようなことを言っている人である。
自分の荷物の重みは、その人が「他人の荷物を代わって担ぐ」という決断をした瞬間に消えるのである。だが、自分の荷物の重さに囚われている人は、そのことになかなか気がつかない。

多田塾合宿から帰ってから、私はだらだらにリラックスしているけれど、それは「自分の荷物」をぜんぶ放り出してしまったからである。
代わりにいろいろな人たちの荷物をちょっとずつ担いでいる。(軽いし)
ただし、「自分の重荷」にしがみついて手放さない人の荷物は私だって担げない。
人の荷物を代わって持ってあげる人の荷物は誰かが代わって持ってくれるけれど、人の荷物を代わって持ってあげない人の荷物は誰も代わって持ってくれないのである。
当たり前だけど。